「メダルを取りに行く」石川祐希が堂々“宣言”のバレー日本男子は52年ぶりの快挙を成し遂げられるか 「女子との格差」で味わった屈辱から金メダルまでの秘話

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 長年、男子バレーを応援してきたファンにとっては、夢のような状況といえるかもしれない。

 異常ともいえるほどの人気はもはや国内にとどまらず、海外でも多くのファンを獲得していることはすでによく知られている通りだ。高橋藍選手に代表されるルックスの良さやアニメ「ハイキュー!!」の影響もあるだろうが、それ以上にやはり実力が伴っている点も大きい。

 7月8日、パリ五輪壮行会で320人のファンを前に先陣を切ってあいさつしたのは、キャプテンの石川祐希選手(28)だ。

「パリにはメダルを取りに行く。絶対に持って帰ります」

 力強いメダル宣言を口にしたのだ。

 実際、現在の日本代表ならばこれも大言壮語とは受け止められないだろう。7月1日まで行われていたネーションズリーグでは銀メダルを獲得。世界ランキングを2位まで浮上させ、飛ぶ鳥を落とす勢いなのだ。

 これまでにも、アイドル的な人気を博す選手はそれなりにいたのだが、ここまで「強さ」も誇れるようになったのは実に久しぶりのこと。

 ご高齢の方なら記憶にあるだろうが、かつて日本男子バレーが五輪で輝いていた時代があった。東京オリンピック(1964年)は銅、メキシコオリンピック(1968年)で銀、そしてミュンヘンオリンピック(1972年)では金を獲得していたのだ。しかし、このあと五輪ではメダルを獲得できず、最終予選敗退に終わることも珍しくなくなった。

 日本男子バレーが五輪メダルから遠ざかってすでに半世紀が過ぎたというわけである。それだけに、石川選手の「メダル宣言」は何とも頼もしい限り。色はともかくとして、獲得できれば快挙なのは間違いない。

 それにしても、半世紀前、今よりもはるかに体格が恵まれない日本チームがなぜ金メダルを獲得できたのか。

 ここでご紹介するのは、ミュンヘンオリンピックを巡る貴重な記録だ。当時、日本代表の武器の一つが「天井サーブ」。秘技はいかに生まれ、チームはいかに頂上に登りつめたのか。ノンフィクション作家・小林信也氏によるドキュメントである。

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(「週刊新潮」2021年7月8日号をもとに加筆・修正しました。日付や年齢、肩書などは当時のものです。)

遊びから生まれた「天井サーブ」

 1972年のミュンヘン五輪、バレーボール男子日本代表に胸躍らせた世代なら、誰もが一度は、“天井サーブ”をまねした経験があるだろう。

 下手から天井に届くほど高々とボールを上げ、敵のリズムを崩す幻惑サーブ。“世界一のセッター”と呼ばれた猫田勝敏の代名詞だ。

(ミュンヘン五輪に向けて、独特の武器が欲しい……)

 そう考えていた時、ふと思い出したのが、広島・崇徳高校時代の遊びだった。体育館の天井にある照明灯にボールをぶつけて遊んだ。

(あれをサーブに使えないか?)

 そんなひらめきを、本当に採り入れてしまう大胆さと遊び心が、猫田にはあった。

 猫田は44年、広島県安佐郡古市町(現・広島市)に生まれた。原爆投下の1年前。自宅は幸運にも戦火を免れた。広島は戦前からバレーボールが盛んだ。自宅裏の小学校には、10面を超えるバレーコートが並んでいた。そんな恵まれた環境で猫田はバレーと親しんだ。総合的には素質があったともいえない。身長は成人になっても179センチ、大きくはない。ジャンプ力もどちらかといえばない方だった。

「お前はバネがないから、かかとをつけずに歩け」

 と中学の先生に言われれば、自宅と学校、片道4キロを爪先立ちで歩くような少年だった。ただ一つ、トスのセンスはずば抜けたものがあった。高卒後、地元の専売広島(現・JTサンダーズ広島)に入社してバレーを続けた猫田は、全日本が広島で試合をするとき、球拾いで連れて行かれた。無名の18歳が練習に参加を許されると、すぐに監督、コーチ、それに選手たちも目を丸くした。

「トスを上げるとき、ボールに入るスピードが速い。動きがやわらかくて、身体の芯が崩れない」

 みんなの一致した驚きだった。猫田がトスを上げる姿は美しく、しなやかだ。

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