「プロ野球選手は二度とやりたくない…」楽天・阪神から戦力外通告、立正大法学部准教授へ転身した西谷尚徳さん(42)の告白

  • ブックマーク

「いつかは自分も指導者になりたい」。高校時代に抱いた夢を実現するために、プロ野球選手になってからも練習の合間に勉強を続け、大学院へ――ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の現在の姿を描く連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第13回は元プロ野球選手から大学教員への道を進んだ西谷尚徳さん(42)です。第1回の記事では 、プロ入り後の苦難の日々から大学院進学を目指すところまでを伺いました。第2回 は戦力外通告を受けてから何を考えたのか――。(全2回の第2回)

現役中から始めた「転職活動」が奏功する

 プロ5年目となる2009(平成21)年、西谷は明星大学大学院人文学研究科に入学する。現役引退後に教育の道に進むための第一歩だった。しかし、この年のオフ、東北楽天ゴールデンイーグルスから戦力外通告を受けた。引退後の準備は着々と進めていた。それでも彼は現役続行にこだわり、トライアウト受験を決めた。

「いや、現役にこだわったというよりは、“けじめをつけたかった”というのが理由です。このとき27歳、故障ばかりだったとはいえ、年齢的には脂がのっている時期です。だから、“ここでダメなら潔く諦めよう”という思いでトライアウトを使わせていただきました」

 その結果、阪神タイガースから育成枠での採用オファーを受けた。首の皮一枚、現役選手としての可能性が残されることとなった。10年シーズンは、阪神の育成選手として、そして大学院2年生として、二足の草鞋を履いた。しかし、何も結果が残せぬまま、再び戦力外通告を受けた。やるだけのことはやった。もう、プロ野球の世界に未練はなかった。

「この年のシーズン途中、すでに引退後のことを見据えて、夏ぐらいからは各方面に履歴書を送るなど、次のステップに向けて動き始めていました。もしもタイガースから戦力外通告を受けずに、どこかから内定をもらっていたとしたら、その時点で僕は自ら引退していたと思います」

 プロ6年間で16試合に出場し、50打数12安打、打率・240というのが、西谷がプロの世界で残したすべてとなった。1年目の春季キャンプでヒジを故障し、その後、トミージョン手術も受けた。満身創痍の中で残した結果に悔いはなかった。一方、シーズン途中から始めていた「転職活動」は望外の高い成果を残していた。引退直後の11年4月からは、多摩大聖ケ丘高校で国語の教諭として勤務が決まり、同時に明星大学大学院人文科学研究科教育学専攻修士課程を修了し、そのまま明星大学で体育の授業を担当することになった。

「そして、2年後の13年には立正大学から文章表現の講義依頼を受けました。3つの道の中から、自分はどうすべきかを、どの道に進むべきかを考えた結果、立正大学で教鞭をとることを決めました。自分が中学時代に思い描いていたことを思い出し、“何が楽しいのか、何をやりたいのか?”と考えた結果、体育ではなく国語教育をしたかったんです」

 こうして、プロ野球選手から大学教員への異色の転身劇が実現する。しかも、体育ではなく国語教員としての生活が始まることになった。

次ページ:「生まれ変わっても、プロ野球選手にはならない」

前へ 1 2 3 次へ

[1/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。