明治大から楽天入り、プロ5年目で明星大学大学院へ…西谷尚徳さん(42)に“異例の二刀流”を決意させた名監督の講義

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予期せぬドラフト指名でとまどいの日々

 現行の2リーグ12球団制から、1リーグ10球団制を目論む経営陣と、それに反対する選手会との対立が表面化し、球界は未曾有の混乱に巻き込まれる。当時、明治大学のエースであり、この年のドラフト会議の目玉でもあった一場靖弘に対して、複数球団から「栄養費」の名目で現金の授受が行われていたことが発覚した。いわゆる「一場騒動」である。

「球界再編騒動については、そもそも自分がプロに行けるとは思っていなかったので、ある意味では完全な傍観者でした。一方の一場の件に関しては、当時の自分はキャプテンだったので、とにかく“一場を守ろう”という思いでした。何しろ、あの頃は報道陣が殺到していましたから」

 まったくプロ入りなど考えていなかったが、再編騒動の荒波の中で、50年ぶりの新規球団となる東北楽天ゴールデンイーグルス誕生が、西谷に大きな影響を与えた。ドラフト4巡目で指名されたのである。1位に指名されたのは一場である。

「元々、指名されるという話も聞いていなかったので、かなり悩みました。でも、“たとえ1年限りで終わってもいいから、プロの世界を体験してみよう”と考えて、プロ入りを決めました。ただ、今から思えば、プロでの目標をきちんと持てていなかったし、楽天に入団したことに満足してしまっていましたね」

 中学校、そして高校、大学時代も、常に「その先の目標」を見据えて、「今、自分は何をすべきか?」を考え、そのための準備に励んできた。しかし、予期せぬドラフト指名により、西谷は「その先の目標が持てないまま」、プロの世界に飛び込むことになった。

「現実は故障ばかりで身体はボロボロだったし、プロの世界のレベルについていくことで必死でした。それに僕の場合は、それまで感覚だけでプレーしていたので、ちょっと疲れが出てきて感覚が鈍ってくると、満足なプレーが出来なくなってしまうんです。つまり、再現性が低いんです。でも、他の選手たちは常に同じプレーを100回でも、1000回でもできる。圧倒的な力の差を感じました」

 早くもプロの世界の大きな壁にぶち当たっていた。このとき、西谷の胸の内に浮かんできたのは、かつて抱いていた夢――、「教育者になりたい」という思いだった。

「現役選手として、プレイヤーとして、技術向上のために一生懸命練習するのは当然のことなんですけど、この頃になると、その先のことも意識するようになりました。それが、私にとっては“教育者になる”という夢でした。市販されている教育学に関する本を読んで、その著者の方が紹介している参考文献も取り寄せて、芋づる式に大学研究レベルの参考書を読むようになっていきました」

 日々の練習に励みつつ、寮では教育学に関する文献をむさぼり読む生活を続けていたプロ2年目、西谷に運命的な出会いが訪れる。野村克也が楽天監督に就任したのである。

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