【光る君へ】道長は「闇落ち」しないと明言されて… “大河ドラマのメルヘン化”が心配になる

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あくまでも自分と自分の家を優先した道長

 そもそも、数え12歳にすぎず、まだ懐妊は困難な彰子を急いで入内させたのも、皇子を産む可能性がある定子と一条天皇にプレッシャーをかけるためだった。そして、11月7日に定子が第一皇子の敦康親王を出産すると、彰子の立場を少しでも定子に負けないようにしておくために奇策を講じた。一条天皇にはすでに定子という中宮がいたというのに、彰子も皇后に立て、「一帝二后」を実現させようとしたのだ。

 ちょうど太皇太后が死去し、三つしかない「后」に空席ができたのをいいことに、そこに彰子を押し込み、同じ一条天皇のもとに二人の后を置こうと考えたのである。かつて、道長の長兄の道隆は、三つの「后」に空席がないので、皇后の別称である「中宮」をもうひとつの「后」の座と定め、そこに定子を押し込んだ。強引なやり方で批判されもしたが、とはいえ定子は、一条天皇にとっては唯一の后だった。しかし、道長は一人の天皇に二人の后という、兄よりえげつない手段に打って出た。

 また、道長は一帝一后が実現する以前から、一条天皇に彰子のもとに通うようになってもらおうと必死で、女房40人、童女6人、下仕え6人を、容姿や人柄のほか出自や育ちのよさにこだわって選りすぐった(『栄花物語』)。また、山本淳子氏はこう記す。「部屋の外まで香り立つ香、何気ない理髪の具や硯箱の中身にまで施された細工。天皇の文学好きを知る道長は和歌の冊子もととのえ、当代一の絵師・巨勢弘高に歌絵を描かせ、文字はまたも行成に筆を執らせた」(『道長ものがたり』朝日選書)。

 長保2年(1000)12月15日、第二皇女を出産した定子が、後産が下りずに亡くなったのちは、道長はやむをえず、定子が産んだ敦康親王を彰子のもとに置き、後見するしかなかった。だが、それは敦康親王を母親の実家である中関白家に奪われないようにするためでもあった。仮に、今後も彰子に皇子が生まれず、敦康が即位することになったとしても、彰子が養母で道長は養祖父という関係をつくって権力を維持する。そんな計算まであったと考えられている。

 その後、結婚から8年を経て彰子は懐妊し、寛弘5年(1008)9月11日、のちの後一条天皇である敦成親王を出産した。その前年8月、道長は奈良県吉野郡にある山岳修験道の聖地、金峯山を詣でた。その目的は、自分自身が極楽浄土に往生することと、彰子の懐妊祈願で、いうまでもなく、なんらかの社会的公正を祈願したわけではなかった。

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