「仮面浪人」は許される行為なのか?――「東大を再受験した京大生」が引き起こした100年前の大論争
第一志望の大学に合格できなかった学生が、別の大学に通いながら受験勉強を続け、再び志望校を受け直すことを「仮面浪人」という。現代ではそれほど珍しくない行為かもしれないが、今から100年以上前、著名人を巻き込む大騒動となった仮面浪人事件があった。日本思想史研究者・尾原宏之さんの新刊『「反・東大」の思想史』(新潮選書)から、その興味深い顛末を紹介しよう。
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大正の「仮面浪人」事件
1921(大正10)年の春、京大法学部の1年生、杉之原舜一が東大法学部を受験し、見事合格した。現代風にいえば「仮面浪人」に成功したことになる。
今日では、さまざまな理由から「仮面浪人」となる大学生は大勢いるので、珍しい話に聞こえないかもしれない。だが杉之原の合格は、東大と京大、そして願書を取り次いだ第一高等学校の間のトラブルに発展し、新聞沙汰となった。京大法学部教授会が在校生の東大受験を問題視し、杉之原を放校処分にしてしまったからである。
杉之原は京大を辞めようとしていたわけだから、放校それ自体はさほど困らないように見える。問題は、京大が放校処分にした学生を、同じ帝国大学である東大が受け入れるわけにはいかないという点にあった。
京大の処分を受け、東大法学部は杉之原の入学を取り消した。杉之原は、京大から追い出され、東大から受け入れを拒絶されて行き場を失ってしまったのである。『読売新聞』は「虻蜂取らずになつたのみか学界からは永遠に死刑の宣告を受けたと云ふ奇怪極まる話」としてこの事件を取り上げた(6月8・14日)。
日本の左翼運動史において、杉之原舜一は多少知られた人物である。のちに民法学者となり、九州帝国大学法文学部の助教授に着任するも内紛で職を追われ(九大事件)、その後マルクス主義者となって非合法時代の日本共産党に入党した。家屋資金局の責任者として活動するも、やがて「スパイM」に売られて治安維持法違反で入獄する。戦後は学界に復帰して法政大学法学部長、北大法文学部教授を歴任した。北大在職中に再び共産党に入党、レッド・パージの中で大学を去り、参議院議員への立候補(落選)を経て、長く弁護士として活動した。その自伝のタイトル『波瀾萬丈』を地で行く生涯である。
杉之原は一高出身で、多くの同級生と同じように東大を目指していた。ところが病気(結核)のため卒業後に入試を受けられず、当時無試験で入学できた京大法学部に籍だけ置いて東京で療養することになった。1年後、「合格してから京大に退学の手続きをすればよい」という東大事務の言葉を信じて受験に挑み合格したわけだが、京大側は在校生の他校受験を許さず、放校処分にしたのである。
京大の鈴木信太郎学生監は、「他の学校の入学試験を受ける如き軽佻浮薄の行為は学生の本分に違背する」と処分理由を説明し、願書を取り次いだ一高、受験を許可した東大の責任を指摘した(前掲『読売新聞』)。
行き場を失った杉之原は、東大法学部教授の末弘厳太郎(すえひろ・いずたろう)、吉野作造、そして京大法学部長に就任したばかりの佐々木惣一のところに押しかけ、助力を求めた。末弘も吉野も佐々木も同情的だった。末弘や佐々木はこの事件をきっかけに杉之原に目をかけるようになり、とくに末弘は杉之原が研究者として身を立てる際に親身に世話をした。
吉野作造の「急変」
問題は吉野である。当初は処分取り消しを求めて京大法学部長の佐々木に談判した吉野だったが、佐々木との面会以降、態度を急変させた。吉野は杉之原に再会するなり、「君、これは、今年はむずかしい。一年間がまんしろ」と説得したという(『波瀾萬丈』)。要するに、東大入学は諦めろということである。前出の『読売新聞』は、東大法学部における「入学取消の主唱者」は実は吉野であるという説を紹介している。
杉之原はこの時、「大正デモクラシー」の旗手である吉野に対する尊敬の念が一気に吹き飛ぶのを感じた。吉野が態度を急変させたことが悪いのではない。問題は、その説得のやり方である。吉野は「一年くらい学校がおくれても大したことはない。私も一年、東大を出るのがおくれているが、いまでは官等、勲位など高等学校同期のものとかわりがない」と杉之原を慰めたという。
この吉野の言葉が、杉之原にはショックだった。民本主義者として知られた吉野が、実は官等や勲位の上下を気にしていたことがわかったからである。この日以来、杉之原は吉野に寄りつかなくなった(杉之原前掲書)。
八方塞がりとなった杉之原は、「もう官学に愛想が尽きましたから早稲田大学の政治科へでも入れて頂きたいと思つてゐます」と新聞に語った(前掲『読売新聞』)。これは末弘が早稲田の中村萬吉教授に杉之原を紹介したことによる。
ちょうど杉之原が早稲田入学の決意を固めた頃、事態は大きく動いた。京大法学部長の佐々木が、来年復学願を出せば受理すると末弘に伝えてきたのである。最初からそこを落としどころにしていたのか、新聞沙汰になったので慌てて事態の収拾を図ったのかは定かでない。早稲田の中村教授も「京大へいけるなら、そのほうがよい」と杉之原を諭し、念願の東大入学は叶わなかったものの、京大に復学できることになった(杉之原前掲書)。
京大生の東大(再)受験が決して珍しくなかったことは、杉之原自身の談話や、一高の谷山初七郎教授の談話からも明らかである。杉之原は、ほかの京大生も東大を受験しているのに、不合格者は軽い処分で済み、合格した自分だけが放校になるのは不公平だ、と佐々木に抗議した。杉之原がのちに「京大の東大への対抗意識というか、感情的なものがあったことはいなめない」と回想したように、見せしめとして処分された感がある。
一高の谷山は、この年から急に京大の他大受験に対する取締が厳格になったことを指摘しているが、それは京大当局の強い危機意識によるものだろう。実は、当初杉之原を支援していた吉野が佐々木との面談後に態度を急変させたのは、「学生が皆東京を望んで転校すると云ふ事になれば京都の大学も困る」という、京大側の事情を呑み込んでのことだった(前掲『読売新聞』)。
※本記事は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)に基づいて作成したものです。