凶悪犯「金嬉老」は獄中でやりたい放題で女囚と“交流”までしていた 犯罪者を助長させたメディアの罪

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 1968年、2人を殺害し、人質をとっての立てこもり事件まで起こした金嬉老(きんきろう)に、NHKをはじめとする当時のメディアが手玉にとられた様子については前編〈「2人殺害後、立てこもり」犯の言いなりになっていたNHKと新聞 金嬉老事件を巡るメディアのいい加減さ〉で詳報した。

 静岡県警のK刑事に差別的な物言いをされたことが犯行の動機だと金は主張。凶悪犯罪の動機としては到底理解できない言い分なのだが、NHKや新聞はその言い分を垂れ流すのみならず、K刑事の「公開謝罪」を生放送で5回にわたって放送したのである。

 ある種のメディアは、時に犯罪者に不要なシンパシーを示すことがある。

 元産経新聞記者の三枝玄太郎氏は、著書『メディアはなぜ左傾化するのか 産経記者受難記』で、警察庁資料などをもとに、この問題について解説している。

 その資料によれば、「犯罪者とメディアの密着ぶり」は驚くべきレベルに達していたようだ。さらに「民族差別」を訴える金への特別扱いは逮捕後も存在していたようだ(以下、同書をもとに再構成しました)。

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 事件当時は、中央大学の教授や作家、弁護士、牧師、在日本大韓民国民団(民団)の本部長らがふじみや旅館(注・金が立てこもっていた旅館)に泊まって、金を説得したが、「金に迎合する点、見受けられる」と警察庁資料に記されている体たらくだったようだ。

 旅館の前は「私が金嬉老を説得する」と主張する野次馬でごった返しており、ライフル銃を発砲するほか、ダイナマイトを身体に巻いていた金に静岡県警は手が出せず、事実上、金の言いなりになっていた。資料にはこうも書かれている。

「21日TBSがヘリコプターを現地へ飛ばして取材し、これが特ダネ扱いとなり、また金の要求に応じて静岡新聞とNHKの記者が会見したことから、各社は競って空から、あるいは検問を避けて山道伝いに、記者やカメラマンを大間地区(筆者注・事件現場)に送り込むという状況になった。このため、現地奥泉及び大間地区には、警察側の警告、制限を無視して200名以上(奥泉約100名、大間約120名)に及ぶ報道関係者が入り込み、その取材合戦は全く激烈を極めた。(略)金は23日から『新聞を見せろ』と要求し、説得者その他から金が新聞を入手する可能性も強くなったので、新聞記事が金を強く刺激することを恐れて現地の記者の引揚げを要求したが、ほとんどこれを無視し現場に居残った」

急に警察側に立つメディア

 このあたりまでメディアは金へのシンパシーを隠さなかったのだが、事態は銃弾によって一変する。

「24日朝記者が面会を要求したのに対して金がこれを拒否し、カメラマンの足許に向けて威嚇射撃をした(略)報道側も盛り上がり、『警察が説得対策ばかりやっているのは手ぬるい』と非難する者も現われた。その直後金の逮捕が実現された」

 要は、散々、金を「民族差別の犠牲者」と書き立てて持ち上げ、当事者のK刑事や清水署長、果ては県警本部長にまで謝罪させていたのに、自分たちが発砲されると、「警察は手ぬるい」と言い出したのだ。全く自分勝手な言い草だとしか言いようがない。現場の警察官は記者たちの無節操に内心は怒り心頭だっただろう。

 警察庁資料でも「NHKと静岡新聞を被疑者に会わせたことから、激烈な取材競争が起きたが、被疑者のこのような申し出は断固拒絶するべきであった」「最後には新聞記者の動きを利用して解決した形になったが、このようなものを全く排除して、警察の自主活動で説得し逮捕する方法は十分考えられ、その意味では、このような記者団の存在は非常に問題があった」と総括している。よほど記者団には手を焼いたのだと思う。

ライフル発射をリクエストしていた民放記者

 報道記者が解決の足手まといになっていたとしか考えられない。金は裁判で民放テレビの記者から「金さん、ライフルを空に向けて撃ってくれませんか」と頼まれた、と証言し、不満を述べている。確かに「戦後昭和史100大事件」などと銘打ったテレビ番組を見ると、金が至近距離から空に向かって発砲する映像が流れており、「記者っていうのは、ライフル銃を前にしても怖気づかない。大したもんだなあ」と子供心に思ったものだが、こういうウラがあったわけだ。

 金に「差別的発言をした」と非難されたKさんは、定年退職の1年前に警部補に昇進し、静岡中央署刑事2課暴力団捜査担当係長になった後、退職した。

 一方、金を逮捕した根来礎夫(ねごろやすお)警部補(当時)は静岡中央署長を最後に勇退、ブラウン管の向こうから金嬉老に頭を下げた本部長は、静岡県では袴田事件の捜査指揮も経験。大阪府警本部長に異動、警察官僚のポストだった防衛施設庁長官を最後に勇退した。

刑務所でも特権を得ていた金嬉老

 金は静岡地裁で公判中の1970年、自身が特別扱いを受けていることを暴露。静岡刑務所で金がいた雑居房からは、出刃包丁ややすり、ライター、果ては毒物まで発見されたというので大騒ぎになった。これは金が自殺をほのめかし、トラブルになることを恐れた職員が差し入れたのを皮切りに要求がエスカレートしていったものだった。その後の調査で望遠レンズ、カメラ3台、香水、金魚鉢、キッチンセットなども自身の房にあったことがわかった。彼は女囚が収監されている雑居房におり、散歩、面会も自由だった。隣室の女囚のところにも自由に出入りしていたという。

 と、ここまでは公表された事実。ほかにも彼は好みの女囚が入ってくると、睡眠薬を混入させた店屋物を食べさせて昏倒させ、レイプまでしていたという証言まである(坂本敏夫『完全図解 実録! 刑務所の中』二見文庫より)。

 法務省矯正局は局長以下26人に対し停職・減給・戒告などの処分を行った。包丁を差し入れた職員は後に服毒自殺した。

 参議院法務委員会で弁護士資格を持つ社会党の亀田得治参院議員が「刑務所における管理の大きな欠陥だ」と追及している。が、静岡刑務所の処遇は、あまりにも金がヒーロー視されていたことと無関係ではない。何しろ県警本部長の頭まで下げさせて、新聞、テレビだけでなく、日高六郎、中野好夫、鈴木道彦、それに俳優の宇野重吉ら名だたる文化人、有名人らが「金さん、金さん」とおだてて囃していたのだから、今さら、刑務所の職員のせいだけにする社会党参院議員のご都合主義にも呆れてしまう。

 金はその後、無期懲役刑が確定し、1999年、二度と日本の土を踏まないことを条件に仮釈放。韓国に渡ったが、殺人未遂事件などを起こし、服役するなどした。金は晩年、日本への再入国を希望していたが、かなわず、2010年、前立腺がんのため、釜山の病院で死去。親族も遺骨の引き取りを拒否し、遺骨は釜山沖と事件現場付近に散骨されたという。

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 差別を訴える者に対しては矛先が鈍くなり、あきらかな犯罪ですら見過ごしてしまう――決して昔の話ではないと感じる方もいるのではないか。

 前編〈「2人殺害後、立てこもり」犯の言いなりになっていたNHKと新聞 金嬉老事件を巡るメディアのいい加減さ〉では、警察が立てこもり犯に対してテレビで「公開謝罪」するという異常事態を詳報している。

三枝玄太郎(さいぐさげんたろう)
1967(昭和42)年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1991年、産経新聞社入社。警視庁、国税庁、国土交通省などを担当。2019年に退職し、フリーライターに。著書に『三度のメシより事件が好きな元新聞記者が教える 事件報道の裏側』『十九歳の無念 須藤正和さんリンチ殺人事件』など。

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