「2人殺害後、立てこもり」犯の言いなりになっていたNHKと新聞 金嬉老事件を巡るメディアのいい加減さ

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 犯罪者の主張を伝えるには細心の注意が必要というのは、報道に関わる側の常識である。

 直近では、KADOKAWAが受けたサイバー攻撃に関するNewsPicksの報道が批判を集めている。NewsPicksが脅迫についての裏事情を報じたことに、KADOKAWAが激怒、猛抗議しているのだ。

 KADOKAWAにしてみれば、まさに現在進行形の脅迫事件。いかに報道目的であっても、その詳細等を伝えるには、かなりの配慮や注意が必要だろう。

 ともすれば脅迫の片棒をかつぐことにもなりかねないからだ。脅迫側は同社の社会的信用を失墜されるのが目的かもしれない。そうなると報じることそのものが、犯罪者にとってありがたい援助となりかねないのだ。

 しかし往々にして、メディアは犯罪者の側に奇妙なシンパシーを抱くことがある。特にそれは左派メディアに顕著な傾向といえるかもしれない。

 産経新聞元記者、三枝玄太郎氏の著書『メディアはなぜ左傾化するのか 産経記者受難記』では、昭和の大事件、金嬉老(きんきろう)事件に関する興味深いエピソードが紹介されている。

 2人を殺害し、人質を取って立てこもる凶悪犯の言い分を、当時のNHKをはじめとするメディアは何も考えずに垂れ流していた。それどころか犯人の言い分に乗っかり、警察官に「公開謝罪」の場まで提供していたのだ。

 なぜそこまで言いなりになってしまったのか。経緯をたどると、犯罪者に肩入れする知識人と、無節操なメディアの姿が浮かび上がってくる。

 事件発生から20年以上たった1991年、新人記者として静岡に配属された三枝氏が生き証人たちに聞いた話とは――(以下、『メディアはなぜ左傾化するのか』をもとに再構成しました)

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金嬉老事件の生き証人の明暗

 赴任してから4カ月ほどすると、警察署で顔なじみの警察官や刑事が出来始め、警察署回りを難行苦行と感じることも少なくなってきた。

 ある日、Oさんという静岡中央警察署刑事1課のベテランの巡査部長と仲良くなった。いかにも人情刑事といった風貌だった。階級こそ高い人ではなかったが、静岡県警の盗犯捜査では名刑事の誉れが高い人だった。当時の静岡中央署は歴史の生き証人のような人が顔をそろえていた。

 根来礎夫(ねごろやすお)署長は、かの金嬉老事件で功績をあげた人物だとして1年生記者の間でも有名だった。この事件は、ある種の「劇場型犯罪」の先駆けとも言えた。在日韓国人の金が、静岡県清水市(現・静岡市清水区)のクラブで暴力団組員ら2人を射殺し、その後、静岡県榛原(はいばら)郡本川根町(現・川根本町)にある寸又峡(すまたきょう)温泉のふじみや旅館に立て籠もった事件である。手元に警察庁刑事局捜査1課が監修した資料があるので、それをもとに経緯を記してみよう。

 1968年2月20日午後8時23分ごろ、金は清水市旭町のクラブ「みんくす」でライフル銃を取り出して、知人の暴力団組員(36歳)とその連れ(19歳)に10発ほど発射。乗用車で逃走した。組員はその場で死亡が確認され、連れの少年は病院で死亡した。

 県警はその日の夜のうちに、金から清水警察署にかかってきた電話によって、犯行動機や状況を聞き出していた。逆探知をしたところ、すでに金はふじみや旅館に立て籠もっていた。旅館には経営者家族5人と宿泊客8人がいて、13人は全員が人質となった。

動機は「民族差別」だと主張

 警察との交渉の最中に、金は事件を起こした理由を民族差別問題だと言い出した。清水で暴れ回っていた金をKという刑事が見とがめ、侮蔑的な言辞を弄(ろう)したことが原因だというのだ。旅館に立て籠もった金と説得に当たった刑事の一問一答を引用してみると、恨みつらみを繰り返し述べている。

金「俺はねえ、清水の警察のKにゃあ、本当に憎しみを持っている」

刑事「何で?」

金「俺が清水で、こういうことをやるという計画を立てたのも、K刑事への面当てという理由があったんだ。遺書に書いてあるんだ」

刑事「遺書作ったのか?」

金「遺書はブンヤさんに渡すよ。警察に渡せば、もみ消すからな。それには、いろんなことが書いてある。世話をかけた人には、迷惑もかけないようにしてある。とにかく掛川署のOさんね、この人を俺は親のように慕っていた」

テレビでの公開謝罪

 翌21日午前10時10分、金が慕っていたO巡査がNHK、静岡新聞の記者と一緒に金の説得に当たる。金は新聞記者に対し「K刑事が昨年、自分を侮辱したことについて、県警本部長とK刑事は謝罪せよ。このことを全国放送しろ」と言ってきた。

 午後3時、K刑事の上司の清水警察署の署長が全国放送で第1回目の謝罪をした。

 金は「謝罪の仕方が悪い」と難癖をつけ、人質を連れて、近隣の集落を歩き回り、発砲した。

 次に静岡県警本部長がテレビで謝罪。金はこれを了として、人質のうち女性と子供計4人を解放した。

 K刑事は21日午後から22日午後にかけて、NHKで3回、静岡放送で2回と何と計5回にわたって謝罪を強いられた。

 静岡県警捜査1課は、金が人質を解放するたびに玄関先まで人質を見送りに来ることに着目し、24日、9人の刑事を記者に化けさせて潜り込ませた。カメラも持たせた。そのうちの一人が当時、警部補だった根来署長だったのだ。

 柔道5段だった根来さんは、金の左前方から飛び掛かり、金の右側から右手を金の首にかけた。

 午後3時25分頃、殺人、銃刀法違反などの容疑で金は逮捕された。

 根来署長は舌を噛もうとした金の口に自らの警察手帳を咄嗟に突っ込み、自殺するのを防いだとも言われていた。もともと出世の早い人だったが、金嬉老事件の活躍が出世コースの一番槍となる決定打となった、というのが地元記者の一致した見方だった。

 これに対して、冷や飯を食わされたのはKさんだった。先に述べた通り、その侮蔑的な発言が犯行動機だ、と金は主張していた。だが、それを真に受けて良いものかどうか。

 Kさんは金嬉老事件以後も暴力団捜査畑を進み、静岡中央署の暴力団捜査では中心的な人物だった。だが、金嬉老事件発生時は、根来さんが警部補、Kさんが巡査部長だったのに、1993年当時には、根来さんが警視正に出世していたのに対し、Kさんは定年退職が迫っていたのに巡査部長のままだった。

 痩せぎすで、肩を怒らせて歩き「お前ら、新米記者に何がわかる」と言って、刑事2課長と雑談している僕に割り込んできたこともあった。だが、薄いサングラスの下の目は笑っていた。粗にして野なKさんだから金嬉老に多少乱暴なことは言ったかもしれない。だが、性根の悪い人だとは思えなかった。しかも、それが理由で二人も殺害し、旅館に87時間55分も立てこもったことを正当化できるだろうか。

 Kさんが住んでいた清水の家に夜回りをかけたことがある。Kさんは「バカ野郎、不退去罪だ」と言うと、バケツに水をいっぱいに汲んで、再び玄関先に出てきた。「し、失礼します」と慌てて帰った。Kさんからすれば、朝日も産経も自分を「差別刑事」に仕立てたメディアの一員に変わりはあるまいという心境だったのだと思う。

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 人質救出のためとはいえ、凶悪犯の言い分にやすやすと乗ってしまい、公開謝罪までさせる。こうした「特別扱い」が金を増長させたのは間違いないだろう。

 驚くべきことに、服役後も奇妙な「特別扱い」を享受していたというのだ。その真相は後編〈凶悪犯「金嬉老」は獄中でやりたい放題で女囚と“交流”までしていた 犯罪者を助長させたメディアの罪〉でご紹介する。

三枝玄太郎(さいぐさげんたろう)
1967(昭和42)年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1991年、産経新聞社入社。警視庁、国税庁、国土交通省などを担当。2019年に退職し、フリーライターに。著書に『三度のメシより事件が好きな元新聞記者が教える 事件報道の裏側』『十九歳の無念 須藤正和さんリンチ殺人事件』など。

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