【虎に翼】37歳になった寅子 物語全編に横たわる「キーワード」と「伏線」 後半の「戦い」を考察

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寅子の戦いは終わらない

 さらに、高度成長期下で国が豊かになったにも関わらず、被爆者救済に目が向けられなかったことについて、「われわれは本訴訟を見るにつけ、政治の貧困を嘆かずにいられない」と糾弾した。日米両国を徹底的に批判した。

 この判決は新聞各紙が1面トップで伝えたのは無論のこと、AP通信など海外通信社も世界に向けて至急伝を打電した。また、のちに国連の国際司法裁判所(オランダ)が先例として採用する。それほど画期的なものだった。

 しかし、ここまでが限界だったらしく、原告の賠償請求は棄却した。三淵さんは無念だったのか、原爆裁判について振り返ったことは1度としてない。

 もっとも、この判決が契機となり、1968年に「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定される。国による本格的な被爆者救済がやっと始まった。その後の原爆訴訟では原告側が国に勝訴した。三淵さんたちによる判決が影響した。

 ここで穂高が寅子に対し、第38回(1942年)で言った「雨垂れ石をうがつ」という言葉を思い出す。穂高が第69回(1950年)で自分を評した「私は大岩に落ちた雨垂れに過ぎなかった」にも重なる。三淵さんは価値ある雨垂れとなった。大岩をうがった。

 日米両国に屈しなかった原爆訴訟を見ても分かるとおり、三淵さんは水源を守り続けた。無論、寅子もそうなるのだろう。また、立場の弱い側を泣かすまいとした三淵さんの姿勢は、寅子が高等試験(現・司法試験)に合格した直後の第30回(1938年)に明律大で行ったスピーチとも符合する。

「困っている方を救い続けます。男女関係なく!」(寅子)

 注目点はまだまだある。終盤で観られることが見込まれる裁判所内人事の男女不平等問題と寅子の戦いもその1つ。

 1970年、当時の最高裁人事局長が「女性は歓迎しない」といった差別発言を繰り返した。そのとき、三淵さんは東京家裁の裁判官だったが、一方で日本婦人法律家協会の副会長だった。

 三淵さんと同協会の会長は「女性に対する侮辱」「国民の司法に対する信頼を失わせる」などと書いた抗議書を最高裁人事局に提出する。裁判官でありながら、自分の人事を左右する最高裁人事局に抗議したのだから、三淵さんの男女不平等を許さぬ気持ちは不変だった。

 当時の同協会の会長は久米愛さんである。久米さんをモデルとする人物は既に登場済みだ。寅子の明律大の先輩で、泣き虫だった中山千春(安藤輪子)である。中山は第29回(1938年)で寅子と一緒に高等試験に受かり、弁護士になった。

 モデルの久米さんは家族が関係する問題、事件のエキスパートとなった。一方で国連から「日本を代表する人権派弁護士」と評される。

 物語は男女不平等が著しかった1931年から始まった。1947年には第14条で「法の下の平等」が定められた新憲法が施行されたものの、性別による不平等は最高裁人事局長の発言があった1970年時点まで続いた。その後もなくならなかった。

 はたして寅子が第14条を実感できる日は来るのだろうか。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。前放送批評懇談会出版編集委員。

デイリー新潮編集部

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