ジャッキー・チェンとのコラボに失敗、世界デビューし損ねた「日本人レスラー」と「元ジャニタレ」

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

ジャッキーとプロレス!?

 18年5月に亡くなった歌手の西城秀樹さんとは大親友で、これまで何度も日本のテレビ番組や日本企業のCMに出演しているジャッキー。親日家であることから、日本のエンタメ業界がその人気にあやかろうとする動きが、これまでにも何度かあった。その中でもプロレス界と芸能界で、将来が嘱望されていたのに運悪く絡めることができず“世界デビュー”を逃した例が2つある。

 1人目は、2000年に「400戦無敗の男」として知られたヒクソン・グレイシー(64)に敗れて引退したものの、現在もプロレスラーとして現役の船木誠勝(55)だ。

 船木はもともと、85年に当時プロレス史上最年少の15歳11カ月で、新日本プロレス(以下・新日)でデビュー。以後、「UWF」、「パンクラス」などのリングで活躍したが、新日総帥のアントニオ猪木もほれ込んだ逸材だった。

「船木は89年1月からイギリスで修業していましたが、同年4月発売の『週刊プロレス』(ベースボールマガジン社刊)誌上で、前田日明率いるUWFへの移籍を宣言したのです。しかし、まだ19歳だった船木の将来を嘱望した新日が残留説得を試みました。若手にしては破格のギャラアップに加え、帰国した船木に対して猪木さんは、『東京ドームで、ジャッキーとエキシビションマッチをやらせる』と、ジャッキーのファンだった船木の心を揺れ動かすのです」(ベテランプロレス記者)

 実際、新日はあらゆるコネを使って、関係者を通じて実現に動いたという。

「船木は同年5月にUWF参戦を果たしたのですが、ジャッキーとのマッチアップが実現していれば、その名は世界に轟いたはずです」(同)

 現在、船木はYouTuberとしても活動中だが、新日時代から盟友だったレジェンド覆面レスラーで、現在はプロレス解説者の獣神サンダー・ライガー氏(59)とのリモート対談で、幻に終わったジャッキー戦について語っている(21年6月3日)。

船木  自分がUWFに移籍することを「週刊プロレス(週プロ)」さんの記者さんに言っちゃったんですよ。それで、「週プロ」に出たら、そっから毎日、毎日、会社(=新日)から電話があって。その時、こっちに人が来て。ジャッキー・チェンとのエキシビションの話知ってます?

ライガー氏  知ってる。船木、怒ってたよね?

船木  違うんです。ちょっと、やりたかったんで。ファンだったんで。でも、「ジャッキー・チェンと試合できるってすごいと思いませんか?」ってライガーさんに言ったんですよ。そうしたら、(英で帯同していたライガー氏が)「ジャッキー・チェンって俳優だろ? 俳優と試合してどうすんだよ?」って言われたんで。

ライガー氏  僕、そう、記憶あります

船木  まあ、そうだなと思ってシラフに戻りました

ライガー氏  でも、それ、やってれば良かったね

船木  今だったらあれですけど、当時は、たぶん、「ジャッキー・チェンとやってどうなんだろう」とみんな思うんじゃないですか。

ジャッキー&タッキー

 もう1人。ジャッキーがそのパフォーマンスにほれこみ、自らの意思でタッグ結成を熱望したのが現在、自ら立ち上げた芸能事務所「TOBE」の社長を務める、元旧ジャニーズ事務所(現・SMILE-UP.)副社長の滝沢秀明氏(42)だった。

 滝沢氏は95年に13歳で旧ジャニーズ入りしたが、入所後、たちまち頭角を現してCDデビュー予備軍だったジャニーズJr.(現ジュニア)のリーダーに任命された。

 02年、現在はソロ俳優として活動する今井翼(42)とのデュオ「タッキー&翼」としてCDデビュー。俳優としては05年にNHKの大河ドラマ「義経」で主演を務めるなど、スター街道まっしぐらだった時に、ジャッキーとの“タッグ”結成が浮上する。

「当時のスポーツ各紙が報じましたが、06年の1月20日、マカオの中心街にオープンしたジャッキーの会社が経営するホテルで2人は会見。新プロジェクト『ジャッキー&タッキー』としてW主演のアクション映画を製作することを発表しました。04年に滝沢氏の主演舞台を見て惚れ込んだジャッキーが、当時のジャニーズ社長だったジャニー喜多川氏にオファーしたのです。ジャッキーは『歌や踊りだけでなく、アクションもできるし、タッキーだったら一緒に映画をやれるんじゃないかと前から考えていた』と笑顔で語り、滝沢氏も『僕らの世代のスーパースターですからぜひ挑戦したい』。その時点で、滝沢氏の“世界進出”は確実かと思われたのですが……」(ベテラン芸能記者)

 会見時、ジャッキーは「今、ジャニーズ事務所側からの脚本を待っている状態です」と状況を説明。同席していたジャニー氏は、翌年の全世界公開を見据え、「日本的な要素を散りばめ、日本や中国の歴史、そして、今を盛り込んだら面白いものになると思う」と具体的な構想を明かしていた。

 しかし、結局、このプロジェクトは頓挫してしまう。

「ジャニー氏が製作総指揮の立場から、構想を練る度にジャッキー側に提案していたのですが、結局、双方が納得するものが出来上がらずに、物別れに終わったそうです。しかし、今になって思うと、ジャッキーの“軽口”が決裂の原因だったかもしれません」(同)

 マカオでの会見から約2カ月後、ジャッキーは主演映画のPRで来日した。その際、滝沢氏がゲストとして駆けつけたが、ジャッキーはこのプロジェクトに言及し、その場で次々とアイデアを披露した。

「ジャッキーは最後に、『僕とタッキーの恋愛もの』と発言しました。当時、海外ではBL映画が流行り始めていて、世界の流れに乗ろうとしたのでしょうか。しかし、製作の主導権はジャニー氏が持っていたはず。さらに、ジャニー氏としては、タッキーを光らせたかったのに、ジャッキーがそれを良しとしなかったので、すっかりヘソを曲げてしまったとも言われています」(同)

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。