日本女子初のパーフェクトを達成した「ボウリングの女王」中山律子 ライバル須田開代子との違いは“天性のひらめきと勘”(小林信也)
中山律子は昭和世代なら誰もが知っている「ボウリングの女王」。CMソング、♪さわやか律子さん! のフレーズは一世を風靡した。
1960年代後半に始まったボウリング・ブームは70年代に入って沸騰する。全国に次々とボウリング場が造られ、72年には3697軒もあったという(2022年現在は673軒)。そのボウリングを日本中の話題にした立役者が中山律子だった。
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実力ナンバーワンと呼ばれた須田開代子をしのいで、中山が一躍女王に躍り出たのは、70年8月21日、東京・府中スターレーンで行われた「女子プロ8月月例会」優勝決定戦でパーフェクトゲームを達成した瞬間だった。相手は海野房枝。すぐ後ろの選手席で須田も中山の投球を見つめていた。
第1フレームからストライクを続けた中山の表情に緊張が走ったのは7投目。それまで6連続ストライクは幾度か経験していたが、決まって第7フレームで記録が途切れた。実況を担当していたテレビ朝日(当時NET)の北村元が後に「テレビ朝日が伝えた伝説のスポーツ名勝負」という回顧番組で証言している。
「パーフェクトは絶対見られないとわれわれは思っていました。少なくとも公式競技では絶対に。今まで何回も夢見ながら、実現しなかったわけですから」
それには理由があった。中継するため、レーンを何台もの強いライトで照らした。その熱がレーンに塗られたオイルを乾燥させ、後半に入る頃にはコンディションが荒れてしまう。前半と同じスポットにボールを乗せても、同じ結果は得られない。レーンを読み、微妙に「板1枚」「いや半分」と調整する必要があった。テレビが記録達成を阻んでいる、じくじたる思いで北村らは放送していた。ところが、現代なら「天然」と呼ばれるだろう中山がそんな難題を蹴散らした。同じ番組で中山が語っている。
「(私は)勘だけでいくタイプなんですよ。板1枚とか計算しないわけです。みんなはね、計算して立つ位置とか変えるんですが、私はだいたい全部勘です」
天性のひらめきと勘で、会場がざわつき始めた8投目も9投目も、中山は完璧にポケットを捉え、奇麗に10本のピンを踊らせた。
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