伝説ユニット「COMPLEX」再結成…「布袋寅泰」と「吉川晃司」は何が変わり、何が変わらなかったか

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 年明け早々に北陸地方を襲った能登半島地震から、早くも半年の月日が流れた。被災地では復興に進めたさまざまな取り組みが進められているが、かつての日常を取り戻すには程遠い現状も各所から漏れ聞こえる。

 能登の1日も早い復興に向けてさまざまな著名人がチャリティ活動も行っているが、その中でとりわけ印象的だったのは、今年5月に13年ぶり2度目の“再復活”を果たした吉川晃司と布袋寅泰によるユニット、COMPLEXの東京ドーム公演だろう。

「俺たち人間なんて、大自然と比べるとちっぽけな存在ですけど、こうやって力を束ねれば、また奇跡が起こせると信じています!」(吉川)

 東日本大震災の復興支援を目的とした前回と同様に「日本一心」と名付けられた公演には、平日にもかかわらず2日間で約10万人が集結。約6億5000万円を集めた2011年の時と同じく、公演の収益は被災地の復旧、復興のために全てが寄付される予定だという。【白鳥純一/ライター】

平成の幕開けと共に登場

 COMPLEXの結成は、情報が発表された1988年12月10日に遡る。

 1987年12月24日の渋谷公会堂で解散を宣言し、1988年4月に東京ドームで行われた「LAST GIGS」をもって、BOOWYの活動にピリオドを打った布袋は、10月に全曲英語詞のアルバム「GUITARHYTHM」でソロデビューを果たした。英国進出を念頭に制作された本作は、日本では多くのリスナーの支持を集めたものの、現地で先行発売されたシングル「DANCING WITH THE MOON LIGHT」はわずか1週間で廃盤になるなど、大きな挫折も味わった。

 一方の吉川は、1984年に発表したデビュー曲の「モニカ」が大ヒットしてスターの地位を確立していたものの、1888年に一時活動を休止し、その後に独立。キャリアの転換期に立ち、自身の新たな可能性を模索していた2人の出会いによって、伝説のユニットは誕生した。

 COMPLEXは年を跨ぎ、年号が「平成」に変わって間もない1989年4月に、1stシングル「BE MY BABY」のリリースを皮切りに、2年間でシングル2枚とアルバム2枚を発表し、全ての作品でオリコン1位を獲得した。異色コラボレーションによって生み出されたサウンドは、新たな時代の幕開けを感じさせ、その人気は絶大だったが……。1990年の11月8日に東京ドームで行われた「ROMANTIC EXTRA」をもって、活動を休止。その理由は両者の音楽性の違いや人間関係のすれ違いによるものだった。

円熟味を増したサウンドとコーラスワーク

 COMPLEXとしては3度目の東京ドーム公演となる2024年のステージでは、東京ドーム初披露の2曲を加えた計24曲を披露して観衆を盛り上げた2人だが、これまでの公演を振り返ると、両者の関係性の変化や円熟味を増していく様子が垣間見える。

 前回、2011年に行われた「日本一心」では、当時の関係性を知る観衆が醸し出す若干張り詰めた空気の中、デビュー曲の「BE MY BABY」に合わせて舞台下手(左側)から布袋、上手(右側)から吉川が登場し、ガッチリと握手を交わした。

 今回も同様の演出で登場した2人は、13年ぶりに腕を絡めながらの握手を披露し、久々の再会も絆が深まっているような印象も窺わせた。

 1曲目の「BE MY BABY」を歌い終えると、外傷性白内障と診断されて手術を受けた影響により激しい動きができない吉川は、新たに生み出した側転からのシンバルキックを繰り出して会場を沸かせると、円熟味のある艶やかな歌声で会場を魅了。対する布袋も巧みなギターと、ソロアーティストとして観客に対峙して磨きがかかったコーラスで楽曲の世界を作り上げていった。

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