「ママさん、先日の病気また参りました…」小泉八雲は心臓発作を起こした際、妻・セツに何と訴えたか

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「ママさん、先日の病気また参りました」

 八雲の感性は常に開かれていたのだろう。精霊に捧げる舞のリズムに、身体と魂が共振したのではないか。八雲のひ孫で島根県立大学短期大学部名誉教授(民俗学)の小泉凡さん(62)は「閉塞感が強まっている現代社会だけに、八雲の開かれた精神性から学ぶべきものは多い」と話している。

 しかも、八雲は「上から目線」ではなく、庶民の内側に入り、生活の中の音や声にじっと耳を澄ませた。日本人が経験した自然災害にも強い関心を寄せ、作品「A Living God(生き神)」で「tsunami(津波)」という言葉を海外に伝えた。東日本大震災、熊本地震、能登半島地震……。この国に起きる災害は絶え間ない。揺れ動く大地によって日本人の自制心や忍耐力、他者への思いやりが培われたと八雲は考えた。

 振り返ると、16歳のとき事故が原因で左目を失明した。右目も極度の近視。背が低いこともコンプレックスだった。でも八雲は「オープンマインド」で世界と向き合ったのである。人間中心主義に警鐘を鳴らし、どんな存在も受け入れた。

 さて、「メメント・モリな人たち」をタイトルに掲げる本欄としては、八雲の最期について触れないわけにはいかない。英語教師として松江に赴任後、熊本の第五高等中学校や東京帝大学でも教鞭をとった。セツと結婚し、1896(明治29)年に日本国籍を取得すると「小泉八雲」と改名する。

 そして1904(明治37)年、早稲田大学の講師となった。給与は週6時間で年俸2000円と、東大と比しても破格の待遇だったという。

 東京専門学校から早稲田大学へと改称した早大は進取の気性に富んでいた。八雲自身も官僚風がなく和服を着て登校する者が多い早大を気に入っていたという。

 当時の欧米出身者としては珍しく、非欧米圏の人間に対しても誠実な共感をもっていた。もちろん、日本に深く浸れば浸るほど、対人関係や日常のしきたりなど、なじめない部分も生じてくる。欧米人としての自己を改めて実感し、心の揺れが生じたに違いない。

 同年9月26日、東京の自宅で夕食後、心臓発作を起こした。

「ママさん、先日の病気また参りました」「私、死にますとも、泣く、決していけません。私の骨、田舎の寂しい小寺に埋めてください」

 と小さな声でセツに訴えた。

 まもなく冥界へと旅立った八雲。54歳。少しも苦しんだ様子はなく、死に顔は安らか。口元に笑みを浮かべていたという。早大文学部は弔意を表すため休講とした。

 墓は雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)にある。

 夏目漱石(1867~1916)、村山槐多(1896~1919)、竹久夢二(1884~1934)、永井荷風(1879~1959)……。日本近代文学史を彩る人々が眠る霊園。初夏の日差しを浴び、サンシャイン60が目前にそそり立つ。巣鴨プリズン跡の摩天楼が、巨大な墓標のように映る。

 次回は小説家の団鬼六さん(1931~2011)。中学教師、バー経営、シナリオライターなど転職を重ね、雑誌「奇譚クラブ」に投稿した小説を機に、官能作家の第一人者になった。その波瀾万丈の人生をたどる。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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