「ママさん、先日の病気また参りました…」小泉八雲は心臓発作を起こした際、妻・セツに何と訴えたか

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八雲の心を打った「日本のコンテンツ」

 さて、本欄の主人公、小泉八雲に話を戻す。

 美しくも恐ろしい「雪女」、怨霊が渦巻く「耳なし芳一の話」、のっぺらぼうが顔をペロリとなでる「むじな」……。そんな数々の怪異譚を収めた「怪談」こそが八雲の真骨頂だ。内なる想像力や感性を働かせ、日本文化の根源を理解しようとしたのだろう。

 文化担当の編集委員として私は「今こそ小泉八雲 精霊も自然も受け入れる力」と題した記事を2016年5月30日の朝刊文化面に書いた。「見えない世界に向き合う。『オープンマインド』で異文化との共生をめざした」というリード文である。NHKが朝ドラを発表するより8年も早かった。

 アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれた八雲は、明治期の日本を世界に紹介した日本文化研究家でもあった。偏見のない異文化理解の姿勢と類い稀な鋭い感性の持ち主は、西洋至上主義に向かっていた明治の日本に対し「本当の日本とは?」と問いかけた。慎ましくも誠実な庶民の生活、四季折々美しい自然、ささやかな暮らしの中に息づく信仰心……。いずれも八雲の心を打った「日本のコンテンツ」である。

 八雲に関する数々の著作や研究で知られる早大名誉教授(英文学・比較文学)の池田雅之さん(77)は言う。

「八雲は幼いころから世界各地の文化に触れ、異文化に対し柔らかく相対的な眼差しを持っていた。行商や電報の配達人などの職歴もある。そうした経験が大きかった」

 たしかに、19世紀、これほど世界を回った人も珍しい。詳しく書くと、イギリスの保護領だったレフカダ島(現・ギリシャ)に生まれ、アイルランドで育ち、イギリス、アメリカ、仏領マルティニーク島での生活をへて、日本へやってきたのは1890(明治23)年4月、39歳のときだった。ニューヨークの出版社からの依頼で旅行記を書くため、汽船に乗って横浜港に着いたのである。

 ジャーナリストらしく、早速、足で稼いでの取材。旅装を解くのももどかしいかのように、すぐさま人力車に乗って横浜の古寺を巡った。

 野毛山から聞こえてきた寺の鐘の音は厳粛で深みがあった。春を迎えたとはいえ、まだ空気は冷たい。白い雪を頂いた富士山がくっきりと西方の空に浮かんでいたという。

《まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ》

 八雲は当時の感銘を滞在記「知られぬ日本の面影」に記した。通訳兼案内係の日本人学僧と2人で、汽車に乗って鎌倉へも足を運んだ。円覚寺、建長寺、円応寺、鎌倉の大仏や長谷寺も訪ね、古い風景を楽しんだ。旅の終点となった江の島には干潮時に徒歩で渡った。当時、橋は架かっていなかった。緑したたる島を眼前にして至福に満たされ、潮風も思い切り吸い込んだにちがいない。

 江の島では修験者たちの修行の場でもある「岩屋」にも足を踏み入れた。鎌倉幕府の初代執権、北条時政も籠ったと伝わる洞窟。まさに自然信仰の原点ともいうべき聖域だった。

 八雲にとって見るもの聞くものすべてが初めてだった神奈川への旅行。滞在期間は5カ月と短かったが、日本人の穏やかな笑みや他者への思いやりに特に感銘を受けたことが伝わる。日本の迷信を「ギリシャ神話に匹敵するほど」と称賛。山陰の漁村で初めて見た盆踊りに懐かしさすら覚えた。

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