日本人労働者が食べていた弁当はまるで「豚のエサ」――それに激高した男が取った驚きの行動とは #戦争の記憶

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 1945年8月、朝鮮半島。6万人もの日本人難民の命を救い「引き揚げの神様」とまで呼ばれた男がいた。その名は、松村義士男(ぎしお)。一介の市民に過ぎず、戦前には労働運動へ身を投じたことで国家から弾圧されたアウトサイダーだったが、飢えや疫病により死の淵に立たされた同胞を本土へ帰還させるべく身を賭した。

 時は46年1月。同じく治安維持法違反で摘発された同志・磯谷季次(いそがやすえじ)とともに起ち上がり、かつての労働運動で培ったコネクションを駆使して、驚天動地の集団脱出工作に奔走する松村が目にした衝撃の光景とは――。

※本記事は、城内康伸氏による最新刊『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部を抜粋・再編集して紹介する。(全7回の5回目/最初から読む)

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約4カ月のあいだに1363人もの日本人が死亡した

 戦前に日本窒素肥料の興南(フンナム)工場で働いていた日本人労働者は、従来の社宅を追われた。興南工場は1945年8月26日、朝鮮側に接収され、「興南地区人民工場」と改称した。終戦まで近代的な社宅に住んでいた元日本人従業員は、粗末な朝鮮人用の社宅に移転を強いられ、反対に朝鮮人の労働者は日本人の住んでいた社宅に移り住んだ。
 
 そこに、避難民を抱えて住宅問題は深刻を極める。11月中旬、ソ連軍の指示で咸興(ハムン)から疎開を命じられた避難民約1500人が移住してきた。彼らは厳寒の中、畳がなかったり、窓ガラスが割れていたりする劣悪な施設に収容された。

 その結果、咸興と同じく感染症が猛威を振るった。『北鮮日本人苦難史』によると、1945年9月から12月までの興南における日本人の死亡者数は1363人に達した。特に12月に入って激増し、1カ月間で553人を記録した。
 
 このような興南における日本人の窮状打開の裏にも、松村と磯谷の努力があった。

 磯谷が記した『朝鮮終戦記』によると、二人は1946年1月31日に興南に赴いた。
 
 二人は興南に着いたその日、宿泊する旅館に興南市党部日本人部責任者の兪英基(ユヨンギ)を招き、当面する日本人の諸問題について討議した。当時、興南市党部には朝鮮人が運営する日本人部があった。菰(こも)にくるまれた死体が連日、埋葬のために山の麓に運ばれていく様子を見ていた兪は「日本人が自分たちの手で救済すべきではないのか」と主張していた。

 兪との話し合いは全く噛み合わなかった。兪が反日姿勢を前面に押し出したためだった。(中略)

労働者が食べていた「豚の食糧」のような弁当

 兪英基と激論を交わしたその日の夜を興南の旅館で過ごした二人は翌朝、市内にある民間アパート2階を利用した日本人援護団体・興南日本人居留民会の事務所を訪ねた。その時の出来事について、磯谷は手記「北朝鮮にありて」に記している。松村の人間性が滲み出ているエピソードだ。
 
〈私が同志松村と共に興南を出るにのぞみ、居留民委員会(ママ・正しくは居留民会=引用者注)を訪れた時、各地区委員に対する報道報告板のそばで全くボロボロの着物をまとい、真っ黒な顔をした労働者が弁当を食べているのを見た。
 
 私は何心なく、その弁当の内容を見た時、その食べものが余りにみじめなのに心を打たれ、一時、その弁当と労働者の顔を見つめた。それは殆ど色あせた大根の葉であった。
 
 彼は恥じ入るようにその弁当を私の見えない方にかくしたので、私もそれ以上立ち止まっているに忍びず、そのまま奥の方に歩き、階段の上り口で松村にその弁当を見ろと黙示した。松村は無遠慮にその労働者のところへ行って、その内容を見極めて帰って来た。
 
 私は一緒に二階に上って会長室に入ったが、松村は直ちに出て行き、手に何か紙包みをつかんで帰って来た。(中略)
 
 帰途、松村は先程の小さい紙包みを開いて私に示した。そこには、くだんの労働者が食べかけた大根の葉の中に少量の豆腐かすをまぜた豚の食糧の如きものが包まれていた。
 
 松村は之を三十円で買って来たこと、その時、労働者が涙を流していたということを聞いている中に私も何かはげしい感情にとらえられて終わった〉

ぶっきらぼうだが「思いやりに満ちた」怒り

 労働者が粗末な弁当を隠すと、見るのを止めた磯谷とは対照的に、松村は労働者のところに歩みを進めて、遠慮することなく弁当をのぞき込んだ。
 
 一方で、松村は弁当の対価として労働者に30円を授けているが、これはかなりの高額だ。咸興では当時、醤油1升15円だった。松村の振る舞いは一見、粗野に見えるが、実は弱者を思いやる気持ちと不条理に対する怒りに充ちたものだった。
 
 松村と磯谷は咸興に戻ると、咸興市党部宣伝部長になっていた旧知の李達進(リダルジン)の元を訪れて、労働者から譲り受けた弁当を見せた。そして、興南も管轄に入れる党咸鏡南道(ハムギョンナムド)委員会に、日本人の食料事情を改善するよう上申してほしいと訴えた。
 
 同日夜には、同じく二人が親しくしていた朱仁奎(チュインギュ)を事務所に訪ねた。彼は、道検察部長から一線の検事に立場を移していた。朱は彼の後任として検察所長(旧・道検察部長)に就任していた張海友(チャンヘウ)とたまたま、会合中だった。松村たちはここでも、件の弁当を提示し、検察当局としての善処を求めた。

 検察は日本人の処遇も取り扱う人民保護局の傘下にあった。松村たちの熱気を帯びた嘆願に心を動かされたのか、張海友は、その夜直ちに自動車で興南に向かった。
 
 翌日、張海友の指示を受けた興南保安隊が日本人の食事の内容について、一斉検査を実施した。その結果、松村たちが出会った労働者と同様に粗末な食事を余儀なくされている日本人が多いことが確認された。
 
 興南における日本人の食料事情はソ連軍にも伝わり、ソ連軍の指令によって、途絶えがちだった日本人1人当たりの1日の配給は、それまでの2合から3合に増配されたという。当時、朝鮮人一般に対しては、2合5勺の配給だったというから、日本人の食料事情は大幅に改善されたと言っていいだろう。(中略)

 左翼活動の同志、磯谷と力を合わせ日本人の救済に慌ただしい日々を過ごした松村。結氷が緩む季節になると、彼の活動は水を得た魚のように輝きを増していく。
 

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 第1回の〈「日本人6万人」の命を救った”アウトサイダー”を知っていますか〉をはじめ、終戦で難民と化したきわめて過酷な状況下で、外交官・杉原千畝の「10倍」もの同胞を祖国に導いた「松村義士男(ぎしお)」について、全7回にわたって紹介する。

 ※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。

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