生徒たちが“一糸乱れぬ”行進を…日本の卒業式は「まるで軍隊」 根深過ぎる「集団主義」はなぜなくならないのか(古市憲寿)

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 テレビを観ていたら卒業式の光景が流れてきた。恐らく今も全国どこでも見られる標準的な式なのだろう。番組では巣立っていく生徒に注目して、感動的なBGMが流されていた。

 だが僕が抱いたのは強烈な違和感である。まだ日本はこんなことをしているのか、と心底驚いた。生徒たちが一糸乱れぬ様子で体育館に入場し、一斉にお辞儀をする。その姿はまるで軍隊そのものだった。

 学校と軍隊が似るのは不思議なことではない。集団を統制する手段として、行進や敬礼など一律的な行動を構成員に強いるのは合理的である。実際、近代化における学校教育には軍人育成という側面もあった。行進ができて、文字が読めて、集団行動ができる人材というのは軍隊に必須である。

 だがわが国は戦争に負けて、学校は平和教育の中心地となった。多くの教職員が所属していた日本教職員組合(日教組)も、極めて反戦活動に熱心な団体だった。そんな学校という場で、なぜ令和時代になっても軍隊のような集団行動を強いているのだろうか。

 かつて教職員が式典において「日の丸」を前に起立したり、「君が代」を斉唱するのは義務かどうかが議論になったことがあった。「日の丸」や「君が代」は戦前の軍国主義の象徴であり、その強制は憲法違反ではないか、というのだ。

 僕自身は生徒であろうが教職員であろうが、義務はよくないという立場だ。だが同時に思うのは、学校には「日の丸」や「君が代」どころではない軍国主義の名残が溢れている、ということ。授業や式典のたび生徒に起立と礼を強いる。班活動によって生徒に相互監視をさせる。協調性が重視され、出る杭は打たれる。それは日教組が強く反対してきた戦争とは無関係なのか。

 アジア太平洋戦争を可能にしたのは、当時の国民による集団主義である。強権的な国家が一方的に戦争を起こしたのではなく、人々の熱狂がそれを駆り立てた。戦時下の日本でも、国家よりも大衆の方が好戦的で、「非国民」に厳しかった。

 だからあの戦争と本当に決別したいなら、ヒステリックな集団主義からも距離を置くべきなのだ。だが学校は、反戦を謳いながらも、軍人育成のような集団主義を手放さなかった。もちろん例外も増えているが、今でも予行練習を何度も繰り返し、一糸乱れぬ式典を催行して、自己満足に浸っている学校は多いのだろう。

 学校教育の成果なのか、コロナ時代の日本は非常に統制の取れた社会だった。お国が自粛を求めれば国民は進んで服従し、足並みをそろえない人を「非国民」と糾弾した。熱狂した国民は、より強権的な政策を国家に求め、日本のコロナ有事は他国よりも長引いた。

 将来、戦争が起きた時も同じようなことが起こるのではないか。「命を守るため」の戒厳令に人々は進んで協力して、妥結点を探ろうとする政治家を「国民の安全を考えていない」と非難する。この国のヒステリックな集団主義の根は深い。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2024年7月4日号掲載

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