【光る君へ】道長を導く陰陽師… “遅咲き”の安倍晴明はなぜ絶大な影響力を持っていたのか
遅咲きながら天皇や最高権力者の信頼を集めた
その理由を、斎藤氏はこう書いている。「個人としての障りや罪、穢れを意識すればするほど『大祓』という国家単位の儀礼では、自分の障りや穢れは消去できないという自覚が生まれてしまう。その背後には、『平安京』という個人が生きる都市社会の成熟があった。都市に生きる貴族たちの日常生活で発生する穢れには、もはや『大祓』という国家儀礼では対処できない、というわけだ」(前掲書)。
こうして道長の時代には、貴族たちがなにか怪異に出逢うたびに、それを占い、穢れを祓う役割を、陰陽師たちが一手に引き受けることになった。彼らはいまや、律令国家の官職を超え、個人を対象に呪術的祭祀を行うようになっていた。その代表が安倍晴明だったのである。
晴明が生まれたのは延喜21年(921)だとされる。『光る君へ』の第25回で、晴明が道長に進言した時期は長徳4年(998)の正月だから、このときすでに70代後半だったことになる。亡くなったのは寛弘2年(1005)で、85歳まで現役だったのは、当時としては驚異的なことだった。
父は大膳大夫(朝廷で臣下への食事を司る職)の安倍益材だと伝わるほかは、晴明の若いころのことは一切わかっていない。母が信太の森の妖狐だ、少年時代に鬼が来ると察知して師匠を救った等々は、もちろん後世の創作である。
史料で最初に確認できるのは、40歳のときに陰陽寮の天文得業生(天文博士から天文道を学ぶ学生の職)として祭祀に関わったという記録だ。このとき村上天皇から占いを命じられているから、才能が認められつつあったのだろうが、40歳でまだ「学生」だった。 師匠であった賀茂保憲のあとを受けて天文博士に昇進したときには、もう52歳になっていたので、かなりの遅咲きだったといえる。
ちなみに、天文博士とは、天体に異変を見出したとき、その現象からなにかの予兆を読みとり、密かに天皇に奏上する役割を負っている。晴明は熟年から老年にかけ、こうして天皇と接触する機会を得た。その際、個人的に磨いた技能や呪力も評価され、有力な貴族たちと私的な関係を結び、彼らの救済を担うことになったのだろう。とりわけ、花山天皇や一条天皇、藤原道長らの信頼を集めたため、名声をきわめることとなった。
バビロニアやメソポタミアとのつながり
ところで、道長ら平安貴族たちは、仏教を厚く信仰するケースが多かった。それは奈良時代における鎮護国家の仏教とはうって変わり、あくまでも個人の救済を担ってくれるものとしての仏教だった。具体的には、病気や災厄を払いのけ、現世において命を長らえるためには、密教の加持祈祷に頼った。一方、死後において救済されるために、浄土教の教えにしたがった。
道長はこれらの二つに大きく頼ったことで知られるが、同時に安倍晴明に全幅の信頼を寄せた。つまり、陰陽師は当時の貴族たちの信仰を補完し、現世および来世における救済を完璧にするための存在だったということもできる。
また、晴明は国家の官人である天文博士出身だから、彼の天体観察や占星術は「国家占星術」をベースにしている。前出の斎藤氏の著書によると、「国家占星術」の源流は古代中国にあり、古代中国にはインド系の占星術も伝わっていたという。そして、インドで発達した個人占星術はギリシャに起源があり、さらにギリシャ占星術のルーツをたどると、古代バビロニア、さらには紀元前3000年前後に栄えたメソポタミア文明にまで行き着くという。
安倍晴明の陰陽道は、じつは紀元前の西方の文明に源流があったというのだ。こうした星占いを通じた文明の交流史が、道長らの周囲に渦巻いていたと思うと、感慨深いではないか。
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