あえて最下級の「二等兵」を選んだ2人の東大出身者 それぞれの「筋」と「意地」の通し方
太平洋戦争の戦況悪化に伴い、多くの若者が軍隊に駆り出された。東京帝国大学のエリートたちも次々と招集され、慣れない軍隊生活を始めることになった。
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入隊後数カ月で幹部候補生となる東大出身者も多かったが、中にはあえて二等兵であり続けることを選んだ者もいた。日本思想史研究者・尾原宏之さんの新刊『「反・東大」の思想史』(新潮選書)から、そのような道を選んだ東大出身者2名を紹介しよう。
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1943年10月は、学生・生徒の軍への徴集猶予が停止され、いわゆる学徒出陣が始まった月である(神宮外苑の出陣学徒壮行会は21日に挙行)。
軍隊特に陸軍が、学徒や大学出身者にとって過酷な場所であったことはこれまでも指摘されてきた。陸軍では、幹部候補生になるにせよ、最初数ヶ月間は兵として入営しなければならない。高田里惠子は、若い高学歴兵士がそこで学歴のない古参兵らの「ルサンチマンと悪意」に遭遇したことを、数多くの体験談を検討しつつ示している。上級学校で学び輝かしい進路を約束されたエリートが、学のない民衆の嫉妬(や羨望)に包囲される、という構図である。
その中でも、東大生・一高生に対する風当たりは非常に強く、激しい暴力の対象になることが多かったという(『学歴・階級・軍隊』)。高田の例示する学徒兵らの体験談で興味深いのは、なにか失敗や不手際があるたび、東大の学生のくせに、とか、大学まで行ってて、という侮蔑がついてまわったことである。
一高に入れる学力があったからといって、軍隊に適した能力や体力があるとは限らない。もちろんその「特権」性についての嫉妬や羨望はあるだろうが、昭和戦前期までにはすでに、学歴は職務能力と関係がない、とか、労働や社会運動の経験は大学での学びなどよりはるかに価値がある、といった見方が数多く提供されていた。一部のアナキストのように、東大を出ていることを罪悪視する者までいた。軍隊での生活に慣れた兵士が、しくじりを繰り返す高学歴兵士を侮蔑する土壌は十分にできあがっていたと見ることができよう。
1944年、30歳の時に二等兵として召集を受けた政治学者の丸山眞男は、当時東大法学部助教授であった。東大教授・助教授が二等兵で召集された例はない。ご多分に漏れず「総員ビンタ」などの体罰を受けた丸山だが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではないことを明らかにしたい」と考え、幹部候補生にならず兵卒のままであることを選んだ。丸山にとっての軍隊とは、「異質なもの」との葛藤に苦悩する場であり、その暴力の構造に冷たい目を向け続けた(苅部直『丸山眞男』、『丸山眞男座談』)。
同じように兵卒であることを選んだ東大出身者に、日本学生協会の指導者の一人だった近藤正人(まさんど)がいる。一高昭信会から東大文学部を経て運動に従事した近藤は、1944年の暮れ頃にマニラで戦死したと見られる。当時29歳、丸山の一つ下である。
近藤は、教育召集で見知らぬ上官から「おめえは本当によくやるな。感心な奴だ」と賞賛されるほど懸命に尽くし、除隊時には初年兵代表まで務めた。だが彼は、連隊長の勧めも聞かず幹部候補生を志願しなかった。一兵卒として戦い、戦死したのである(『続 いのち ささげて』)。
近藤が兵卒であり続けた理由は、おそらく丸山眞男のそれとは異なっている。近藤は、多くの名もなき兵士たちとともにある世界、彼自身の言葉を借りれば、「団体的協力の所産としての共感の世界」にとどまり続けることを選んだのだろうと思われる。エリートが真に国民大衆と和合するには、命がけの努力が必要ということかもしれない。
※本記事は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)に基づいて作成したものです。