【光る君へ】一条天皇に3度も辞表を提出…藤原道長が立派とはいえない本当の理由

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激務をこなすたびに病気になった道長

 ちなみに、『光る君へ』では、一条天皇が定子のもとに入り浸る様子が、憂うることとして描き出された。だが、その点も史実とはいえない。一条天皇は定子を職の御曹司に移したが、このとき宮中からかなりのブーイングを浴びており、定子のもとには、遠慮がちにしか通うことはできなかった。だからこそ、その後、定子を一定期間、内裏に戻したりした。彼女が職の御曹司に留め置かれていては、思ったようには「妊活」ができなかったのである。

 いずれにせよ、道長が出家を申し出た背景には、一条天皇の自分への信頼を試すという駆け引きもあったにせよ、主たる動機は病気にあった。女にうつつを抜かし、その結果、道長に身体を張っていさめられたように描かれた一条天皇は、少し気の毒にも思える。

『光る君へ』では、いたって健康そうに描かれている道長だが、実際には、生涯にわたって病気に苦しめられた。なかでも、大きな心配事があったり、激務をこなしたりしたときには、病気になりやすかったようだ。

 先に述べた腰病を患う前年の長徳3年(997)は、道長の長兄であった道隆の息子で、道長のライバルでありながら自滅して流罪になっていた伊周と隆家が、大赦によって4月に赦免され、都に戻ってきた。それを受けて、道長は7月5日、藤原公季を内大臣に据え、左大臣道長、右大臣顕光、内大臣公季という体制を固めた。復帰した伊周が上級の公卿になれないように、手を打ったものと思われる。

 その間、道長は気が休まる暇がなく、また、体制固めのために激務が続いたと思われる。すると案の定、6月8日の夜中に発病した。そこからは回復したものの、7月26日、今度は瘧病(現代のマラリア)で倒れた。瘧病は感染症だが、免疫力が弱ったところで感染したのかもしれない。

人格者ではなくても人間臭かった

 さらには、件の腰病が回復したのちも、同じ年の8月には裳瘡(現代のはしか)に感染している。そして、このときも一条天皇に引退を申し出て、ふたたび断られている。

『光る君へ』では、6月30日に放送される第26回以降、道長が長女の彰子を一条天皇のもとに入内させる話が展開する。定子が一条の皇子を出産するのを阻止するとともに、ゆくゆく彰子に皇子を産ませ、その皇子を即位させて、みずからは外孫として君臨する。それが道長の青写真だった。いずれその通りになるのだが、長保元年(999)11月7日、彰子を女御とする宣旨を一条天皇が下すと、奇しくも同じ日に、定子は皇子を出産した。

 彰子を入内させるためにも、道長はおそらく激務をこなし、神経をすり減らしてきた。そこに、定子が皇子を産んだという、もっとも恐れていたことが現実になったという知らせである。その10日後、道長は霍乱(現代の急性胃腸炎)で倒れている。

 冒頭に、道長は「権勢欲をむき出しにした」と書いた。しかし、権勢欲が膨らめば膨らむほど、政務は繁忙になり、神経はすり減ったことだろう。道長の身体は、そうした状況に対して悲鳴を上げ続けたのである。出家を申し出たのも、それだけ病気がつらかったということだろう。『光る君へ』の道長は「人格者」だが、史実の道長は、もっとえげつなく、もっと弱く、もっと人間臭かった。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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