石井慧が逮捕された日系格闘家役でハリウッドデビュー 渡辺謙のギャラをいきなり上回るとの声も

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五輪で最重量級・最年少メダリスト

 石井は、大学時代の06年4月に行われた、体重無差別の「全日本選手権」で、現在も更新されていない史上最年少の19歳4カ月で優勝し、国内の柔道家の頂点に立った。21歳で臨んだ2年後の北京五輪ではプレッシャーをものともせずに金メダルを獲得した。

「それまでの日本の柔道家はしっかり組み合って一本勝ちを狙うスタイルで、それがプレッシャーとなって五輪で勝てない選手が多かったんです。ところが、石井はポイントでリードしていれば組み合わないなど、とにかく“勝負”に徹していました。さらに、当時は立ち技を重視していた日本の柔道界において、ひたすら寝技も磨きました。試合運びがうまく、反則ポイントを取られることもあまりなかったのです。当時の日本の柔道家としては異色の存在でしたが、師匠や大学の先輩などから苦言を呈されてもスタイルを変えませんでした」(スポーツ紙・元五輪担当記者)

 もともと不世出の柔道家・木村政彦氏にあこがれていた石井は、柔道のみならず柔術やレスリングを習得。木村氏が“3倍努力”と称して、常に人の3倍の練習をこなしたことに感銘を受け、厳しいトレーニングをこなした。その成果が実り、五輪柔道において、最重量級で最年少の金メダリストになった。

 当時、在籍していた国士舘大の柔道部監督は、ロス、ソウル五輪の95キロ超級金メダリストで、15年1月に亡くなった斉藤仁氏だった。金メダル獲得直後のインタビューで石井は、「オリンピックのプレッシャーなんて斉藤先生のプレッシャーに比べたら、屁の突っ張りにもなりません」と発言。その年の「新語・流行語大賞」の候補60語にノミネートされたが、この時の“軽口”が、その後の人生に大きく影響を与えてしまう。

「柔道の名門大学では当たり前なのですが、斉藤氏は石井の卒業後の進路を、自身が懇意にしていた企業に斡旋しようとしていました。ところが、彼はそれに真っ向から反発し、師弟の間に亀裂が生じ、関係修復が不可能な状態になってしまったのです。結局、石井は総合格闘家への転向を表明し、大手芸能事務所がマネジメントを手掛けることになった。しかし、当時は間違いなく世界最強に近い柔道家でした。あのまま続けていれば、五輪での2連覇、あるいは3連覇する可能性も十分ありました」(同)

 09年のおおみそか、自身と同じように五輪金メダリストから総合格闘家に転身した吉田秀彦(54)を相手にデビュー戦を行うも、判定で完敗。そこから、公私ともに“流浪”の人生を歩むことになる。

「飽きっぽい性格なのか、その後一つの団体だけに限定するのではなく、国内でRIZIN、IGF、HEAT、国外ではKSW、PFLなどのリングに上がりました。ベルトも獲得していますが、日本の格闘技ファンが知っているタイトルはなし。柔道への未練もあったのか、16年リオ五輪に米国代表での出場を公言。11~14年には全米選手権に出場しましたが、現地の日本柔道家に敗れるなど、出場はかないませんでした。さらにボクシングやK-1にも参戦しましたが、結果を出せずじまい。それでも、19年に対戦し、惨敗した伝説のファイター、ミルコ・クロコップに弟子入りするため、ミルコの母国・クロアチア国籍を取得していました」(格闘技担当記者)

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