ギャンブル依存に借金苦、闘病生活までネタに…67歳「オバ記者」が明かす「ライターとして最大の危機」だった瞬間

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「オバ記者」誕生秘話

 私は2020年8月31日をもって小学館から離れ、セミリタイアをした。現在拠点を持つ唐津にも来てくれたが、つくづくオバ記者はこれからの日本の高齢者が理想とすべき存在だと感じ入る。そんな野原広子さんに6つの質問をした。

【1】野原広子が「オバ記者」になったきっかけと、自ら「オバ」を名乗ることに葛藤はあったのか、について教えてください。

 2005年、48才のとき、万引きGメンをしている知人の話がすごく面白かったので、それを編集部に話したら扉つきの5ページの企画になりました。その時に「扉に万引き主婦の写真が欲しいけれどモデルを使うほどではないから、野原さん、ちょっと協力して」と言われ、編集部の近所にあったスーパーに話を通して万引きシーンのモデルになりました。その時の私の後ろ姿がいかにもいかにもな“万引き主婦”風で、編集部で話題になったそうです。

 翌年、ひとつ年下のマドンナ(歌手のことよ)が来日しました。その時は「マドンナになりたい」という企画で5ページのグラビアが組まれ、私がモデル兼記者に。マドンナのファッションから食生活、エクササイズを真似してなりきるという編集者の悪ノリ企画でした。

 でも、当時はまだオバ記者とは呼ばれてなくて、ダイエットやオバさんのジーンズファッション、アゲ盛り嬢に変身などなど、毎週のように企画を重ねるうちに、ですね。自然発生的に、記事のタイトルに「オバ記者」というフレーズが入るようになりました。その事に特別な感想は持ちませんでした。

無収入からベッドメイクの仕事へ

【2】45年のライターキャリアのなかで、危機を感じた瞬間と、「私はイケるわ」と感じた瞬間を教えてください。

 実は顔出しのライターになる前々年、私はライターとしてどん底を経験しています。それまで担当を続けてきた大きな読み物連載企画がなくなり、ほぼ無収入に。22才から始めたライター稼業で初めての事でした。仕方なく50代、60代のおばさんに混じって週5日、ホテルのベッドメイクの仕事を8ヶ月間続けていたので気持ちはすっかりオバさん。だから「オバ記者」と銘打たれた時は、またライターができると嬉しかった覚えがあります。

“危機”といえば仕事がなくなったとき以外にもうひとつあります。46才でホテルのベッドメイクを数ヶ月続けていたら、頭の構造がすっかり変わってしまったのです。月に1、2度、ライターとして編集部で打ち合わせをしても、パート先の上司から命令されているよう。何を言われも「はいっ、はいっ」と服従するような対応になりました。ベッドメイクはどんなに一生懸命やっても私は不出来で叱られてばかり。「はいっ」という返答しか出来なくなっていたのです。しかも、そうなった自分を「ちょっとお~(笑)」と編集者から呆れられるまで気づかなかったんです。

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