「天才少女」に訪れた最初の試練は「新たな天才少女」の出現だった 5試合連続負けから“テニスの女王”に返り咲いたクリス・エバートの「執念」

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天才少女に敗れるも

 クリスは「恋多き女性」でもあった。「世紀の恋」の相手は、新星ジミー・コナーズ。二人の恋のクライマックスは婚約時代の74年ウィンブルドンだ。クリスは19歳。直前の全仏で初めて四大大会優勝を飾って臨んだ3度目のウィンブルドン。2年前(72年)は準決勝で前年覇者イボンヌ・グーラゴングに敗れ、前年はキング夫人に決勝で敗れた。74年、決勝の相手はオルガ・モロゾワ。一方21歳のコナーズは74年の全豪で四大大会を制したばかり。この大会は3年ぶり2度目の出場。71年は1回戦で敗退している。

 イギリスのブックメーカーは世紀のカップルのアベック優勝の賭け率を33倍に設定した。それだけ前評判は低かった。ところが二人はともに優勝を飾り、祝賀パーティーでダンスを踊った。幸か不幸か、この優勝は二人の恋路に影響を与えた。「結婚して引退」を考えていたクリスのテニス人生に先の長い未来が開けた。コナーズも同じ。二人は結婚に至らず別れを決めた。

 最初の全仏優勝から7度目の全仏優勝まで、13年にわたって毎年四大会のいずれかを勝ち続けたクリスには、いくつかの転換期があった。最初の試練は、自分と同じく「天才少女」と呼ばれたトレーシー・オースチンの出現だ。クリスは5試合続けてトレーシーに敗れた。79年全米オープン決勝でも苦杯をなめ、史上最年少優勝(16歳9カ月)を許した。注目はすっかりトレーシーに移った。ランキングも1位から3位に落ちた。二度とトレーシーに勝てないのではないか、焦りと自信喪失でクリスは引退を考えた。約半年、コートから離れ、テニス以外の人生を思い続けた。

 この時クリスを支えたのは、79年4月に結婚したジョン・ロイドだった。プロテニス選手だったロイドは競技を離れ、クリスのサポートに専念する道を選ぶ。ロイドの励ましを受け、クリスは80年春、復活への挑戦を決意した。

 その夏、再び全米オープンでトレーシーと対戦。第1セットを失うが諦めなかった。逆転で勝利を飾り、以後二度とトレーシーに負けなかった。それから89年まで第一線で活躍、後半はナブラチロワらと激闘を演じた。氷の仮面の奥に苛烈な努力と執念をたたえた真の女王だった。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2024年6月20日号掲載

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