【光る君へ】紫式部に「まるごと引き受ける」と求婚…藤原宣孝の実像 やらかしの逸話も

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妻が3人いる宣孝はなぜ紫式部に求婚したのか

 宣孝は金峯山詣を終え、4月はじめに都に戻った。その2カ月後の6月10日、筑前守(現在の福岡県北西部にあたる筑前国の長官)が辞任したため、後任に宣孝が任官された。前任の藤原知章はその年の春に筑前に赴任したばかりだったが、疫病によるものだろうか、子息や従者ら30人以上が病死したため、辞任を申し出たという。宣孝にすれば、金峯山詣での御利益に、さっそく与ったわけである。

 その後、筑前守の4年の任期を勤め上げた宣孝は、長徳元年(995)までには都に戻ったと思われ、紫式部に求婚した。このころ、すでに3人の妻のもとにそれぞれ子をもうけており、同時に近江守(現在の滋賀県にあたる近江国の長官)の娘にも求愛していたらしい宣孝。なぜいい年をして紫式部に求婚したのだろうか。

 関幸彦氏はこう記す。「多くの研究者が指摘するように、何人かの女性と浮名を流した宣孝も熟年に達するなかで、精神性を加味した大人の女性を必要としたのだろうか」(『藤原道長と紫式部』朝日新書)。

 そんな宣孝には雅な面もあったようだ。たとえば、長保元年(999)の賀茂臨時祭調楽では、神楽の人長を務め、ドラマでは渡辺大知が演じている藤原行成は日記『権記』に、「甚だ絶妙」と記している。神経質だったと思われる紫式部にとっては、放埓なほど明朗で、同時に雅な面も持ち合わせる宣孝に、魅力を感じたのかもしれない。

プロポーズは歌をとおして行われた

 ただし、『光る君へ』に描かれたように、宣孝は越前まで赴いて求婚したわけではない。そもそもこの時代、男が女性に求婚する際、対面で言葉を投げかけたりはしなかった。まず歌を詠みかけ、それを受けとった女性は、最初はやんわりと断り、それを何度か繰り返したうえで、話がまとまるときにはまとまるものだった。

 研究者たちはおおむね、宣孝は紫式部が父に同行して越前に赴く前に、すでに求婚していたと見なしている。そして、その後は都と越前とのあいだで歌のやりとりが重ねられた。たとえば、こんな感じである。

 宣孝が、「春は解くるものといかで知らせたてまつらむ(春には氷も溶けるように、閉ざしている貴女の心も、いずれ解けて私を受け入れてくれるものだと、どうにかしてお知らせしたいもの)」といってきたのに対し、紫式部はこう返した。

「春なれど白嶺のみゆきいやつもり解くべきほどのいつとなきかな(春になりましたが、白く染まった山に雪はなおも降り積もっていて、いつ溶けるともわかりませんが、私の心もそれと同じです)」

 また、紫式部はこんな歌も返した。

「みずうみに友よぶ千鳥ことならば八十の湊に声たえなせそ(近江の湖で友を呼んで鳴いている千鳥さん、いっそのことたくさんの船着き場で鳴くように、多くの女性に声をかけ続けたらどうですか)」

 そんなやり取りの末、長徳4年(998)の春、紫式部は父を越前に残して都に帰り、宣孝と結婚した。ただし、ほかに妻がいる宣孝が紫式部と同居することはなく、彼女は「夫」が時々通ってくるのを待つしかなかった。とはいえ、その後の歌から判断するかぎり、幸福な夫婦生活を送っていたようだが、それも2年半で途絶えてしまう。長保3年(1001)4月、宣孝は疫病のためにこの世を去ってしまうのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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