「本など読まなくても生きてこられた」 読書嫌いの横尾忠則が“知識人とうまく交流できる”ワケ
最近は時々、こんなことを考えます。それは僕が読書生活とは全く無縁の生き方をしてきたことに対する想いです。アトリエにも自宅にも本は山ほどあります。だけど、あるだけでほとんど読んでいません。僕にとっては別に本は読まなくてもいいのです。大事なのは買うことです。読書ではなく買書です。買うことによって、その本の魂のようなものを吸い取れば、それは読んだことになります。
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読書は集中力が必要ですが、僕は子供の頃から集中というより、いつも心を拡散していました。ひとつのことに集中するのがニガ手です。ただし絵だけは別です。子供の頃から集中して模写ばかりしていました。それは本を読むように他人の描いた絵をそっくり換骨奪胎してその絵の作者になり切ることでした。文字を読む代りに絵を食べるように模写して体内で消化していたのかも知れません。もしかしたらこの行為が読書に代る行為だったのかも知れませんね。
読書は人の考えを頭で暗唱する行為でしょ。僕は画家の肉体から放たれる情念や感情をそのまま食べるように栄養にしていたのかも知れません。一枚の絵を模写するだけで結構満腹していたのです。こんな子供だったから、活字の本を読む必要がなかったのでしょう。線や色などの形は画家の肉体から発信された、言葉ではない一種の霊力のようなもので、この点では活字の読書とは異なるもののように思います。頭脳を通して吐き出される言葉と違って画家の肉体から発せられたエネルギーです。
読書から学ぶことは一種の観念的な行為です。頭の中で固定的に考えたものですが、模写から学ぶのは言語的体験ではなく、視覚的体験なので、言語的体験のような観念の世界とは全く別で現実的、実践的、即物的な肉眼の世界における具体的な物に即しての考えだから、実在論的といってもいいように思います。観念というのは具体的な物事について観察などしないで自分の頭の中でそうだと決め込むので、現実に立脚しない、頭の中で組み立てた考えです。
だから読書人と視覚人は全く水と油です。読書人と視覚人は出発点が違うのです。読書には全く興味のなかった僕は、その代り読書と対極の模写の世界を生き方にした人間だったということです。小、中、高を通じて、僕は周辺の子供達とかなり、物の考え方に差異を感じていたことは確かです。ほとんどの子供は何らかの形で読書に興味を持っていました。そんな仲間の中で僕くらいです、読書アレルギーな子供は。とにかく何が嫌いかというと読書なんです。それでも読書するとしたら教科書ぐらいで、他のジャンルの本など見向きもしないほど本アレルギーだったように思います。読書は一種の恐怖でもあったのです。
人間の人格は10代でほぼ確定するといいます。ですから僕の人格は読書をしない人格として決定したのです。でも本など読まなくても生きてこられました。成人になってからも、依然として本と無縁の生活をしてきました。不思議なことに僕の周辺の人達は結構学歴の高い人が多かったように思います。それは今も変りません。友人、知人のほぼ全てが大学卒の知識人です。にもかかわらずこうした知識人と上手く交流しています。言語とか、観念では劣るところがありますが、全く不自由を感じたことがありません。語彙は確かに貧困かも知れませんが、不自由をしたことはありません。別の言葉に変えればいいのです。読書で得た知識というより、このような人達との交流で得た最小限の理念や言葉ですが、別に物を知らずに困ったこともありません。同じ人間同士だから通じて当然です。
確かに友人知人の知識人とは、異なる発想と行為によって通じ合えます。同じ美術家でも、やっていることが全く違います。現代美術の最先端は観念芸術(コンセプチュアルアート)です。僕も現代美術の末席をけがすアーティストですが大半のコンセプチュアルアーティストとは全く反対のコースを走っています。コンセプチュアルアートは観念思考が先行しますが、僕は観念の反対ですから頭の中を観念と言語で埋めることの反対、つまり頭から観念と言語を極力廃除して何も考えられない状態の空っぽにすることで脳を肉体化させて、肉体先行の作品を作るアーティストということになります。ある意味で最先端の美術ムーブメントからドロップアウトしたアーティストといえます。
なぜ僕は子供の頃から読書を奪われていたのかは知りません。なぜか文字、言葉、活字が大嫌いな子供としてこの世に生まれてきたように思います。現代美術の世界では僕は少数派のアーティストのような気がします。理性のコンセプチュアルアートに対して感性のアートが僕には不可欠らしいのです。なぜこうなったのかは知りません。なるべくしてなったというか、まるで他人ごとのように、「こんなのが描けてしまいました」としか言いようがないのです。