「私はただのオールド・マンだよ」プロレスの神様「カール・ゴッチ」が藤波辰爾を誘って動物園に行った理由

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「人間の先祖は海から来た。死後は海に帰らないといけない」

 関係者によると、ゴッチは晩年、足が弱くなり、来日することができず、弟子の猪木にあいさつしたがっていたが、かなわなかったという。そのことを知っていた人が、ゴッチの死の直後、遺骨の分骨を決め、日本での墓の建立を提案。「人間の先祖は海から来た。私たちは死後、海に帰らないといけない」というゴッチの遺志に従い、フロリダ州の自宅近くに散骨。残りを回向院に納骨し、永代供養してもらうことになった。

 納骨式の様子はスポーツ紙がネット版などで報じている。猪木は「遠い過去になった話が思い起こされた。これ(今回のゴッチの納骨式)をきっかけに、またレスリングが本来あるべき強さや時代、原点を忘れないでおくというのはいいことだ」としみじみ語った。

 ゴッチの墓が松下村塾を開いた吉田松陰の墓の近くに建立されたというのも何だか因縁めいている。幕末動乱の時代に生を受け、「至誠」を貫き通し、勇敢に行動した松陰と「妥協なき真のプロレスラー」とも称されたゴッチは、どこか共通するものがあるのだろう。

 ところで、ゴッチといえば、ライバルでありNWA世界ヘビー級チャンピオンのルー・テーズ(1916~2002)との試合を思い出す人が多いだろうが、私は国際プロレスで1971年4月に行われた第3回IWAワールド公式戦のビル・ロビンソン(1938~2014)との対決を挙げたい。

 プロレス評論家の門馬忠雄さん(85)によると、このころゴッチはアメリカのプロレス界から干されていたという。「プロレスのショー的要素を大切にする米マット界からすれば、ストロングスタイルのプロレスは地味で受けなかった」と門馬さん。ゴッチは当時、ハワイの清掃局に勤務していたという。「人間風車」ロビンソンとの手に汗握る熱戦。互いに技の限りを繰り出し、まさに芸術と言えるような戦いだった。

 ゴッチは自らを「プロレスの神様」と名乗ったことは一度もなかったという。「神様」というニックネームは、日本のプロレスマスコミが命名したものだった。

「私はただのオールド・マン(Old Man)だよ」

 そんな声が聞こえてきそうだ。

 次回はZARDのボーカル・坂井泉水(1967~2007)。40歳という若すぎる死。清潔感と透明感が飛び抜けたアーティストでもあった。応援歌「負けないで」がリリースされてから31年になる。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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