「私はただのオールド・マンだよ」プロレスの神様「カール・ゴッチ」が藤波辰爾を誘って動物園に行った理由

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 相手の背後に回り込み後ろに投げたままブリッジで固める――言わずと知れた「ジャーマン・スープレックス・ホールド」の生みの親、カール・ゴッチ(1924~2007)の登場です。アントニオ猪木(1943~2022)はじめ多くの弟子を送り出し、日本のプロレスファンからも愛されたゴッチ。最強と言われた彼の精神を貫いたものは何だったのか。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は日本を愛したゴッチの人生に迫ります。

「何が大切なのか、君自身が学べ」

「プロレスの神様」「無冠の帝王」「千の技を持つ男」……。さまざまなニックネームの中で「秒の殺し屋」ほどカール・ゴッチ(本名カール・イスタス)の本質を形容した言葉はないだろう。

 あまりにも強すぎて対戦相手がいなかったとか、プロモーターに「もっと長い時間、戦え」と言われても言うことを聞かなかったとか、さまざまな伝説があるが、対戦相手を次々と倒して連戦連勝したのは事実だろう。派手さがなく地味なファイトだったため、ショー的要素を大切にしていた興行主からは「お金にならない」などと煙たがれていた面もあった。「いろいろ気難しいところもあった」という声もある。

 プロフィールではドイツのハンブルク出身とされていたが、ベルギーのアントワープで1924年に生まれ、青年時代からレスリングを習う。第二次世界大戦後、捕虜収容所に入ったこともあり、そこで知り合ったロシア人からロシア生まれの格闘技サンボを教わった。ベルギーのレスリング界では無敵の強さを誇ったらしい。

 1950年代になりヨーロッパ各地で参戦。60年代には全米へ進出、「カール・クラウザー」を名乗り活躍する。

 私がゴッチを好きなのはその強さより「礼儀正しさ」だった。試合が終わるとほとんど必ず、リング中央で四方に気を配りながら一礼。そして静かにリングを下りた。その余韻! 並のレスラーならワーワーとわめき散らし、ガチャガチャと騒音ばかり残して会場を去るのだが、ゴッチは違った。戦いとは相手を打ち負かすだけではない。戦いとは強さを誇るものではない。そのことを実践した、まさにストロングスタイルのプロレスだった。

 1968年に日本に移住し、日本プロレスのコーチに就任、「ゴッチ教室」を開いた。練習が始まる時間になると道場に鍵をかけ、少しでも遅れたら参加させなかったそうだ。

 教え方といっても、手取り足取り教えるのではない。スパーリングで一方的に技をかけていく中で、「何が大切なのか君自身が学べ」という感じ。選手の自発性に任せる形だ。

 愛弟子のひとり藤波辰爾(70)は、ゴッチ道場での修業時代をこう振り返っている。

「起床は朝6時か6時半。それから、だいたい9時まで練習をする。そのあと朝食です。食べ終わったら休憩時間になるのだけど、英語で書かれた昔の分厚い本を渡されたことを覚えています」

 本と言っても、コロシアムで猛獣と人間が闘っている話とか、レスリングに関係する本ばかりだったという。頑固親父でもあったゴッチ。稽古は時間に厳しく、手抜きなど全くしなかった。

 藤波は1975から翌年にかけ海外修行で西ドイツや全米を回った。当時は体重も身長もジュニアヘビー級にすら満たなかったが、毎日、ゴッチとトレーニングしていたので、大男たちの中に入って戦っても恐怖感は全くなかったという。何よりも心の支えになったのは、相手が巨漢レスラーの場合は「戦い方が大切だ」というゴッチの教えだった。どうやって相手を崩していくか、どうやって相手を投げるか。いわゆる戦略である。

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