落第危機の非行少年が無試験で京大進学――あまりに強運すぎる「有名ニュースキャスター」の人生
東京世田谷の高級住宅地にある成城学園は、戦前は旧制私立七年制高校の一角を占め、卒業生は無試験で帝国大学に進学できた。中にはほとんど勉強もせずに、東大や京大に潜り込む学生もいたという。
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戦後、TBSのニュース番組の看板キャスターとして長年にわたり活躍した古谷綱正さんも、成城から京大に無試験で進学した一人である。日本思想史研究者の尾原宏之さんの新刊『「反・東大」の思想史』(新潮選書)から、古谷さんの型破りな学生生活についてお届けする。
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成城ボーイの非行遍歴
毎日新聞出身のニュースキャスターとして活躍した古谷綱正は成城高校の第4回卒業生で、成城第二中学校が東京府下の砧村(現・世田谷区成城の一帯)に移転し、高校に改組される過渡期を経験した。
古谷は、尋常科つまり中学のときに「非行」に走った。まずはお決まりの喫煙である。同級生の仲間4、5人と砧の広大な校地の雑木林に隠れてタバコを吸うことを覚え、やがてタバコ屋での万引に手を染めるようになった。喫煙のほうはすぐに担任教師にばれたが処分は甘く、保護者に通知されただけで済んだ。
やがてエスカレートして、学校帰りにカフェーで女遊びをすることを覚えた。酒こそ飲まないが、ぴったり隣に座って接待する女給と親しげに話したり、料理を食べさせてもらったり、誘惑されたりという経験をした。まだ中学生、14歳から15歳である。
そうこうしているうちに「非行」にも飽きてきたが、その間学業は遅れに遅れた。やがて学校に行きたくなくなり、朝になると砧とは逆方向の浅草に行き、映画館に入りびたるようになった。
綱渡りの高校進学
問題が露見したのは、翌年に高等科への進学を控えた、尋常科4年の2学期である。担任の自宅に呼び出された古谷は、いまのままでは進学が不可能であることを通告され、1年落第するか、進路変更するかの2択を迫られた。
ところが、進学できてしまった。成城高校が採用していた特殊な教育システムを最大限に活用すれば、やりようによってはこれまでの不勉強(無勉強)を挽回できるからである。それが、ダルトン・プランに代表される自学自習のシステムにほかならない。
古谷のような生徒にとっては、このシステムが吉と出た。画一的な時間割に基づいた授業ではないので、休み返上で自学自習を続ければ追いつくことが理屈では可能だからである。担任も「なんとか進学させてやろうという気だった」らしく、ひどく遅れている科目は1学期分まとめてテストするよう、ほかの教師に口添えしてくれた。
東洋史では『黄河の水』という本を1冊読み、形式的な口頭試問だけでなんと1学年分も及第にしてくれたという。便宜を図ってくれない英語・数学・国語は、冬休みに教師の自宅をひたすら訪問してテストを受け続けた。こうして古谷は全科目をなんとかクリアして高等科に進学できたのである(古谷綱正『私だけの映画史』)。
高校では左翼運動に深入りする
だが、古谷の「非行」は高等科になっても治らなかった。ただし今度は遊興ではなく、左翼運動である。当初組織にこそ入っていなかったが、逮捕された同級生の処分反対運動に決起したことで深入りしていく。組織の下働きや秘密機関紙発行などの活動が警察の知るところとなり、検挙され、留置場に入れられた。
退学は免れたものの事実上停学になった古谷は落第を覚悟したが、ここでもさらに救いの手が伸びた。卒業式の10日ほど前に学校から呼び出され、突如卒業を通告されたのである。
登校していないので3年次の2学期と3学期は期末試験すら受けていない。それなのに卒業できたのは、放校処分にして反対運動が起こるのも困るし、さりとて復学も困る学校当局の思惑があったのではないか、と古谷は推測する。
京大文学部に無試験で入学
こうして古谷は、再三再四にわたる成城高校の寛大な処分によっていい加減な形で高校を卒業し、定員に満たないため無試験で入学できた京都帝国大学文学部哲学科美学専攻に潜り込んだ。その回想が誇張なしの真実であれば、古谷は変則的に中学を修了し、高校の3分の1は出席せずに帝大に進学したことになる。
古谷がもし公立中学校から官立高校という進路を歩んだとすれば、まず公立中学校で落第、官立高校入試は不合格、入れても在学中に左翼運動で放校、と3度にわたって落伍することになる。古谷は、成城独特の自学自習システム、小学校や中学校からエスカレーター式に進学できる「私立」「七年制」という制度、そして個性尊重を標榜するリベラルな校風に助けられ、最後は無試験入学に助けられたのだった。
「エ※・プロ・テロの三重奏」
帝大における私立高校出身者は、かなりの程度異分子として見られていたようである。新宿のデパート嬢をナンパする「エ※ボーイ」成城、阪神間のモダンな空間でウィンクをする「近代青年」甲南ボーイは、地方官立高校から出てきた学生とは明らかに異質で、彼らの挙動は時に面白おかしく描かれた。特に成城はナンパだけでなく学生運動(プロレタリア)もさかんで、左翼生徒を憎む反動(テロ)生徒の活動も活発だった。この自由な学園の姿は、『帝国大学新聞』によって「エ※・プロ・テロと騒々しい三重奏」と評された(1931年5月4日)。
成城から京大へ進学した古谷は、大学に対する思想弾圧事件である1933年の瀧川事件に遭遇し、学園闘争の中心人物の1人となった。その古谷は、京大における成城高校同窓会が終始闘争をリードしたことを指摘する。「少くとも経済学部、文学部では成城高校は指導的な一員だつた。しかもともすれば引込み思案になる中央部の一部分に対する急進的な反対者であつた」(『成城文化史』)。そして古谷はこういう。「成城時代に暴れ廻つた経験がどんなにかこの事件に生かされたことだつたらう」(同右)。
※本記事は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)に基づいて作成したものです。