「ルビーちゃんは亡くなる2週間前にお見舞いに来た」 稲川素子さんの娘が明かす母の素顔【追悼】

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 テレビをつければ姿を見ない日はない。世は外国人タレント全盛だが、その礎を築いた人といえるだろう。外国人のタレント事務所を一から興し、“女傑”と呼ばれた稲川素子さんが亡くなっていた。享年90。愛娘がその格闘の日々を振り返る。

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「母は5月13日に天国に旅立ちました」

 そう語るのは、稲川さんの一人娘でピアニストの佳奈子さん(65)である。

「1月に90歳を迎え、まだまだ現職のお役に立ちたいと元気でおりました。でも2月、大動脈弁狭窄症の症状が出て検査入院をしたら徐々に衰え、言葉も少なくなり……。母の日の翌日に亡くなりました。その前日は大好物のウニを食べて、ニコーっと最高の笑顔。家族にとって何よりの恵みとなりました」

50歳で訪れた転機

 稲川さんは1934年生まれ。慶應大を病気で中退した後、22歳で三井鉱山勤務の夫と結婚し、佳奈子さんを出産した。その後は一人娘の教育に専念し、ピアニストとして文部大臣賞を受賞するまでに育て上げる。

 専業主婦として過ごした素子さんに転機が訪れたのは50歳を迎えた時だった。

「私がドラマにピアノを弾く役で出演したことがあったんです」

 と佳奈子さんが回想する。

「母も一緒に収録に来ていたのですが、監督が周囲に、別の撮影でフランス人の役者が必要だが、見つからなくて困っている、と話をされていました。それを小耳に挟んだ母が、フランス人の知人に聞いてみましょうか、と提案したのです」

 が、尋ねたところ、知人は既に日本をたっていた。

「でも母は何とか助けて差し上げたいと、日仏学院に行き、ちょうどその時来日されていたフランスの舞台監督にお願いをして出演していただきました。もちろん演技は素晴らしく“外国人は稲川さんに頼むといい”と評判が立つようになったのです」

 その後は依頼の電話がしばしば来るように。

「お断わりできない性格ですからつてをたどって努力し、ご紹介をし続けました。するとTBSのプロデューサーさんから“今後も仕事をしたいから会社を作って”と言われました」

 そこで設立されたのが「稲川素子事務所」だった。

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