61歳で保育士の資格を取るために専門学校へ、63歳で保育園に就職…元パ・リーグ首位打者(65)が明かす第二の人生「コツコツやるのは得意です」

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 ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の現在の姿を描く連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第12回はロッテオリオンズなどで活躍した高沢秀昭さん(65)です。前編では現役時代の思い出や伝説の「10・19」ロッテvs近鉄戦について伺いました。高沢さんは現在、社会福祉法人どろんこ会が運営する「大豆戸どろんこ保育園」で保育士として働いています。プロ野球選手からなぜ保育士へ? じっくりとその理由を聞きました。(前後編の後編)

【前編】〈高沢秀昭さん(65)が語る伝説の「10・19決戦」 近鉄ナインの夢を打ち砕いた劇的な一発は「たまたま」だった〉からの続き

現役引退後、子どもたちを教えるアカデミー講師に

 日本中の注目を集めた1988(昭和63)年10月19日、伝説の「10・19」において、近鉄バファローズナインの夢を打ち砕く劇的な一発を放った高沢秀昭だが、自身初となる首位打者を獲得したこの年が、結果的に選手としての絶頂期となった。翌89(平成元)年オフにロッテオリオンズから、広島東洋カープに移籍するものの、結果を残せずに91年に古巣に復帰。しかし、すでに若手が台頭していたロッテでは出場機会がなく、新生・マリーンズ1年目となる92年限りで、13年間の現役生活を終えた。

「このとき、球団からはコーチ就任の話をもらったんですけど、自分としては、“まだやれる、もっと現役を続けたい”という思いはありました。まだ34歳でしたから、他球団で現役続行する道も探っていたんです。でも、お世話になっていた方に相談すると、“誰もがコーチになれるわけではないのだから、ありがたく受けた方がいい”と言われ、コーチになることを決めました」

 高沢のコーチとしての日々は、引退直後の93年から2009年まで17年間続いた。この間には、後にメジャーリーガーとなる西岡剛、名球会入りを果たした福浦和也、現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務める今江敏晃など、多くの有望な選手の成長に尽力する日々を過ごした。そして10年からは、子どもたちに野球を指導する「マリーンズ・アカデミー」の講師となった。これが、高沢にとっての転換点となった。

「このとき初めて、子どもたちに野球を教える仕事を始めました。それまでは、“子どもに関わる仕事をしたい”と考えたことは一度もなかったけれど、実は昔から子どもが大好きでした。現役時代に、コーチが子どもを連れてグラウンドに連れてきたことがあったんです。そのときも、その子と仲良くなって一緒に遊んだりして、“うちに泊まっていく?”なんて言って、コーチの子どもを預かったりしたこともありました」

 当時コーチだった千田啓介の子どもを預かる以前から、高沢は「いつも、近所の子どもたちと遊んでいた」という。プロ入りする以前、社会人野球プレイヤーだった頃の話だ。「今だったら、大変な問題になるんですけど……」と前置きして、高沢は続けた。

「当時勤めていた王子製紙の球場の裏が広場になっていて、近所の子どもたちがいつも遊んでいたんです。練習が終わって、そこを通っているうちに女の子と男の子の小学生の姉弟と仲良くなって、“今度の土曜日は練習がないから、一緒に遊ぼうか?”って約束をして、一緒に遊んだこともあったし、プロ入りが決まって、“お仕事で遠くに行っちゃうから、もう会えなくなるよ”って手紙を書いたこともありました。それがきっかけで、後にその子の結婚式にお祝いの手紙を書いたこともありました」

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