高沢秀昭さん(65)が語る伝説の「10・19決戦」 近鉄ナインの夢を打ち砕いた劇的な一発は「たまたま」だった

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伝説の「10・19」、近鉄ナインの夢を打ち砕く劇的な一発

 80年代半ば以降、西武ライオンズは黄金期を迎えていた。パ・リーグ各球団が「打倒西武」を掲げる中、88年シーズンは西武と近鉄バファローズが息詰まる戦いを繰り広げていた。ペナントレース最終盤となる10月19日、首位・西武は前日までに全日程を終えていた。それを追う2位・近鉄が逆転優勝を果たすためには、この日に予定されていたダブルヘッダーで2連勝するしかなかった。そこに立ちはだかったのが、高沢が四番を務めるロッテである。

「あの頃のパ・リーグはずっと西武が優勝していたので、“近鉄を勝たせたい”というムードがファンの間にもありましたよね。最初の試合は意外と淡々としていたんです。でも、初戦に近鉄が勝って、“次の試合も勝てば逆転優勝だ”となったことで、どんどんヒートアップしていきました。この日の試合前に有藤監督が、“我々はすでに最下位が決まっているけれど、ここで手を抜いたら近鉄にも失礼だから、全力で戦おう”と言っていたことを、今でもハッキリと覚えています」

 球場中が近鉄ナインを応援していた。急遽、試合中継を決めたテレビ朝日系列各局は、放送終了時間を過ぎてもなお「ニュースステーション」で中継を続けたことで、日本中が注目する一戦となっていた。追いつ追われつの展開、近鉄1点リードで迎えた8回裏、ここで打席に入ったのが高沢だった。

「阿波野(秀幸)のスクリューボールにまったく合わずに空振り、空振りだったんですけど、フルカウントからのスクリューが、それまでのボールよりも少しだけ甘く入ったんです。そうしたら、たまたまバットの先にうまく引っかかってくれた。本当にたまたま、たまたまだったんです」

 本人が何度も「たまたま」と語る打球はレフトスタンドに飛び込んだ。これで、4対4の同点となり、試合は振り出しに戻った。「試合開始から4時間を経過した場合は、そのイニング終了をもって打ち切り」という規定のため、同点のままでは西武の優勝が決まる。残り時間はほとんどない。近鉄が逆転優勝するためには、9回表に逆転するしかなかった。

「後で映像を見ると、驚くほど球場中がシーンとしていましたね(苦笑)。打球が飛んだ瞬間は、もちろん“やった!”という思いなんだけど、一塁を回って二塁ベースに行くと、セカンドの大石大二郎が“ウーン”という顔をしていてね。改めて、“あっ、同点にしちゃった”って思いましたね」

 高沢の放った「同点にしちゃった」一打によって、試合はそのまま引き分けで終わり、近鉄の夢ははかなく散った。こうして、この年も西武がパ・リーグを制した。一方、高沢は首位打者を獲得。リーグ最多安打も記録すると同時にベストナインにも輝いた。

「結果的に、この年が僕にとってのピークとなりましたね。調子がよかったというよりは、たまたまヒットになったり、たまたまノーヒットの試合が続かなかったりしただけ。本当にたまたまだったと思いますね」

 まるで口癖であるかのように、自身の実績を語る段になると「たまたま」という言葉が飛び出してくる。ここまでの話を聞いていて、いまだ保育士を想像させる要素はゼロである。一体どうして、高沢は保育士となったのか?

(文中敬称略)

後編では現役引退後、コーチを経てから61歳で専門学校に通い、63歳で保育士資格を得た理由を語る。

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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