高沢秀昭さん(65)が語る伝説の「10・19決戦」 近鉄ナインの夢を打ち砕いた劇的な一発は「たまたま」だった

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山田久志、東尾修、鈴木啓示……パ・リーグエースたちとの対戦

 1958(昭和33)年、北海道に生まれた。苫小牧工業高校から王子製紙苫小牧に就職し、アマチュア時代は北海道でずっと過ごした。

「社会人でプレーはしていましたけど、元々、プロ野球選手になれるとは思っていませんでした。当時、北海道の社会人野球はレベルが高くて、電電北海道、拓銀、新日鐵室蘭、大昭和製紙 がトップ4で、王子製紙は5番手ぐらいでした。だから、まさか自分がドラフト、それも2位指名されるとは思ってもいませんでした」

 79年ドラフト2位でロッテオリオンズに指名された。当時のオリオンズは「ミスターロッテ」の有藤通世を筆頭に、レロン・リー、レオン・リーの「リー兄弟」に加え、張本勲、白仁天ら 、他球団から移籍したベテラン選手など、豪打の打者が並んでいた。

「実際に、みなさんすごいバッターばかりなんですけど、有藤さんにしても、張本さん、白さんにしても、現役晩年でした。だから、プロに入って最初に驚いたのは、当時すごい勢いで伸びていた落合(博満)さんでした。僕自身は、内野手で指名されたけど、1年目に腰、2年目、3年目に肩を痛めて、試合はおろか練習もまともにできないまま、外野でのレギュラーを目指していました」

 プロ3年目となる82年は38試合に出場、翌83年は62試合と、少しずつ試合出場の機会が増えてくるにつれ、持ち味であるバッティングも確実性を増していく。ちょうどその頃、70年代を支えたベテラン選手たちがチームを去り、落合や高沢など、チーム内の新陳代謝も進みつつあった。

「当時のパ・リーグは各球団にエースがいました。それこそ、テレビで見ていたような人ばかり。阪急の山田(久志)さん、西武の東尾(修)さん、そして近鉄の鈴木(啓示)さん。山田さんのシンカーは、真っ直ぐに見える軌道で急にスッと落ちる。でも、フォークボールのような落ち方じゃないんです。カーブは右バッターの背中からグンと曲がってくる。本当にすごいピッチャーでした……」

 現役時代から無口で有名で、あまりにもしゃべらないため、チームメイトから、「昼行灯」「歩く墓石」と呼ばれていたという逸話を持つ高沢の口調が、少しずつ熱を帯びてくる。

「東尾さんは、ビンボール気味の投球でバッターの胸元をえぐることで有名だったけど、僕みたいなヘボバッターには、そんなボールは投げてこなかったですね。でも、近鉄の鈴木さんとは相性がよかったんです。インコースにカットボール気味のスライダーを投げてくるんですけど、それを待っていれば打つことができました」

 ある日の試合で、高沢は5打数5安打を記録する。そのうち4本が二塁打で、いずれも鈴木から放ったものだった。少しずつ、そして着実にプロとしての実績を残しつつあった。そんなときに迎えたのが、プロ9年目の1988年10月19日、後に「10・19」と称される伝説の一夜である。

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