【光る君へ】一条天皇がいくら望もうとも定子と会わせるわけにはいかない…裏にあった藤原道長の“私情”

国内 社会

  • ブックマーク

自分ファーストな権力固めのはじまり

 このような一条天皇の感情と行動は、当時の宮廷社会の常識を超越しており、道長には到底理解できなかったと思われる。平安文学研究者の山本淳子氏は次のように記している。

「道長の知っている上級貴族たちは、父や兄を含め誰もが権力闘争を生きていた。それが彼らの行動原理であり、そのためには感情問題など後回しにすることが当然だった。だからこそ道長も、恋心とは別に、何はともあれ源氏の血筋の女と結婚したのである。正妻の倫子も同じだ。彼らは権力のために心を一つにして家族を作ったし、子供を育てが。それが彼らの生活感覚だった」(『道長ものがたり』朝日選書)。

 ところが、一条天皇はひたすら「恋心」を基準にして定子にこだわった。道長にとっては、どれほど理解を越える、やっかいな問題であったことだろうか。

 しかし、道長も手をこまねいて見ているだけでは、自身が権力を失いかねない。だから、定子が内裏に呼び戻された翌月には、まだ数え12歳にすぎない長女の彰子の着裳の儀(女子が成人してはじめて衣裳をつける儀式。事実上の成人式)を行って、入内の準備を開始した。その後、定子がふたたび懐妊すると、道長は焦りを増したようで、お産が近づいた定子が内裏から移動する日には、公卿たちがそれに立ち合えないように、同じ日に宇治遊覧を企画して彼らを呼び寄せた。もはや露骨なイジメである。

 結論をいえば、長保元年(999)11月7日、道長は彰子を入内させ、同7日に彼女を女御にするという宣旨がくだったが、奇しくも同じ日に、定子は一条天皇の第一皇子である敦康親王を出産した。

 以後、道長は、娘の彰子が定子の立場を上回り、早く一条天皇の皇子を産ませるべく、尽力することになる。『光る君へ』の第23回で見られた、道長が一条天皇と定子を引き離そうとした意志は、こうして自分の血筋を有利に導こうという努力につながっていく。道長とはそうやって権力を固めた人物であり、そのはじまりが、さり気ないシーンのなかに描かれていたのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 3 次へ

[3/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。