【光る君へ】一条天皇がいくら望もうとも定子と会わせるわけにはいかない…裏にあった藤原道長の“私情”

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是が非でも定子を排除したかった理由

 道長が公的な道理よりも「私情」を優先するのを、『光る君へ』がどこまで露骨に描くのかはわからない。だが、当時の宮廷社会においては、上級貴族たちは、自分に、そして自分の家に有利な状況を導くべく争うのが常識だった。だから、道長の発言の背後に、どんな私的感情があるのかを考えながらドラマを視聴すると、よりおもしろくなるだろう。

 このときの道長の「私情」は、まだ数え10歳にすぎない長女の彰子を、一刻も早く一条天皇のもとに入内させて皇子を産ませたい、ということにあった。周知のように、藤原氏は自分の娘を天皇に嫁がせ、産まれた皇子を天皇にし、その外祖父として摂政、続いて関白になり、権勢をふるってきた。この時代、後宮を制する者が権力を制したのである。

 道長の父の兼家も、一条天皇の外祖父になることで権力を固めた。また、兼家から権力を継承した兄の道隆も、長女の定子を入内させて中宮にした。道隆は、自分が42歳で没するとは思っていなかっただろう。いずれ定子が皇子を産んだら、天皇の外祖父として権力を万全にする心づもりだったに違いない。

 ところが、道隆は道半ばにして死去。残された定子は、兄の伊周と弟の隆家が花山法皇を襲い、流罪が決まったときに、彼らをかくまった末にみずから出家してしまった。

 しかし、仮に定子が皇子を産めば、道隆を祖とする中関白家が皇子、ひいては天皇の外戚として復活する可能性がある。そうなれば、道長は権力を奪われかねない。それを恐れるから、道長は一条天皇と定子がふたたび会うことを、是が非でも阻止したかったのである。

それでも定子にこだわった一条天皇

 ところが、一条天皇は道長の想像を超える行動に走ることになる。『光る君へ』の第23回で、懐妊している事実が一条天皇に伝えられた定子は、出家したまま長徳2年(996)12月に、第一皇女となる脩子内親王を出産した。

 生まれたのが皇子でなかったので、道長はホッとしたと思われるが、一条天皇の定子への思いは強まるばかりだったようだ。翌長徳3年(997)6月、天皇は定子を職曹司(后に関する事務を取り扱う場所)に移した。要するに、出家した身であって、道長にいわせれば、天皇が会うことはまかりならない定子を、強引に宮中に戻したのである。

 天皇がすることだからだれも逆らえない、という話ではなかった。当時の宮廷社会は一条天皇の判断に猛反発しており、『光る君へ』で秋山竜次が演じている藤原実資は、自身の日記である『小右記』に「天下甘心せず(世間はこのことを甘く見ていない)」と書いた。しかし、それでも一条天皇はへこたれず、ついに長保元年(999)正月には、定子を内裏に呼び戻してしまった。

 一条天皇が定子にこだわり続ける理由は、客観的にはなかった。定子が出家した時点で、宮廷社会は天皇と定子が離別したものと受けとっており、このため、出家の2カ月後の長徳2年(996)7月には、大納言の藤原公季が娘の義子を、11月には右大臣の藤原顕光が娘の元子を、それぞれ入内させていた。まだ皇子がおらず、自分の皇統を絶やさないために男子が生まれる必要があった一条天皇だが、定子にこだわらずとも「妊活」の相手はいた。

 ところが、一条天皇は定子を寵愛し続け、どんなに反発を買おうとも、定子との関係を保って、彼女に皇子を産ませようとしたのである。

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