「手の届く範囲のことをやっていればそれでいい」 87歳・横尾忠則の“ストレスをためこまない”一日の過ごし方

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 編集者のTさんから、生活について書いてくれませんかという要望がありました。

 うーん、生活ねえ、コロナ以後、そういえば生活がなくなったように思います。それ以前は映画、演劇、コンサート、小旅行、展覧会鑑賞等の外出が生活の一部だったように思いますが、現在はほとんど外出することもなくなっています。この数年は老化も進行しているのか、歩くことが面倒臭くなってしまって、従がって散歩も全くしません。

 朝食のあと、すぐ自転車でアトリエに行きます。アトリエでは絵の制作が主な仕事ですが、といって毎日絵を描くわけではなく、連載のエッセイを書くこともあり、あとはぼんやり空想していることが多いです。このぼんやりの時間が実は創作のためには重要な時間なのです。頭の中を空っぽにして言葉や観念を追放させるためです。昔、禅を習っていた時の経験から、考えないことに慣れているので退屈するということはないですね。

 読書は週刊誌を拾い読みする程度です。朝日新聞で書評を担当していますが、最近は2ページぐらい読むとすぐ活字がぼやけてしまうので、一冊読むのに1週間以上かかります。時間がかかり過ぎて本の内容は忘れてしまいます。書評は一種のリハビリのつもりで15年間続けています。

 昔と違って絵はうんと早く描きます。ゆっくり描くとつい思考をしてしまうので、なるべく考えないで、肉体に全て宿して、サッサとアスリートのように瞬間芸的に描きます。昔のようにじっくり描いていると絵が重くなって、観る人にも疲労感を与えかねません。

 絵を描いている途中で、アトリエの横の遊歩道を下って、野川の公園に行くこともたまにあります。原稿用紙を持っていってエッセイを書くこともありますが、ここでもベンチに腰を下して景色を眺めたり、歩いている人を観察したりしています。このように何もしないことが僕にとっては至福の瞬間でもあります。

 でも取材などがあるとアトリエで対応します。耳が難聴のためにほとんど聴こえないので、特殊な集音器にたよります。

 絵以外は、ほとんど受動的に与えられたことにしか対応しません。これはうんと若い頃から変りません。常に受け身でいることの方が好きです。与えられた条件に対応するだけですから、自分が自主的に行動を起こすようなことはほとんどありません。自分から行動を起こすと、おのずと、そこに目的ができてしまいその結果に縛られるので、極力与えられたものにしか対応しないようにしています。加齢と共にこの傾向は益々強くなる一方です。この方が、未知に対する期待ができて楽しみでもあります。何が来るのか、何が起こるのかなと考えるだけでワクワクします。その点自分からやってしまうと、苦労だけで、時には上手くいかなければ、それがストレスになります。

 老齢になると、自分の行動範囲がうんと狭ばまります。それはいいことです。手の届く範囲のことをやっていればそれでいいのです。歳を取ればできるだけ好奇心を持って、意欲的に行動しろという人もいます。僕はその反対です。好奇心は一種の欲望なのでそれに振り廻されてしまいます。その結果、苦の種をつくることになりかねません。またこのことがストレスになって病気にもなりかねない。もし好奇心や意欲を持ちたいなら、仕事ではなく、遊び、または何かを創造する。こうしたものに対しては害はありません。むしろ長寿が約束されるかも知れません。

 夕方になってアトリエに光が差してこなくなると、体力が減退するような気がするのでサッサと筆を置いて、帰宅します。帰宅時間は6時から6時半頃です。帰宅に合わせて妻が夕食を作って待機しています。日曜日の夕食は必ず週一回のステーキですが、ウィークデイはどんな料理が用意されているのか全くわかりません。食卓に出されるまでわからないのです。そして夕食はいつも僕の分だけしか作りません。妻の作る料理はいつも量が多いので、必ず残こります。妻はその僕の残こり物を食べています。

 食事のあとは、テレビを観ることもありますが8時過ぎに風呂に入ります。湯舟には色んな種類の浴剤の中から、その日の気分で決めたものを入れます。あとは寝るだけです。朝と夕方以降だけが自宅での時間なので、まるで家が旅館みたいです。猫のおでんは必ず僕のベッドで眠ります。朝まで2、3回トイレに行きます。すると目が醒めてしまい、ベッドの中で上半身を起こして30分ばかりテレビを観る習慣がついていますが、この深夜のテレビ鑑賞の結果、不眠症が治りました。深夜のテレビは不眠の原因だといわれていますが、僕には逆の効果が働いています。観る番組は外国の観光風景を映した映像です。このミニマルな番組がきっと睡眠を誘うのかも知れません。

 ざっと以上が一日の生活ですが、アトリエ生活が主体なので創造と生活を分けて考えられないのです。この二つは一体化してしまって、創造=生活になっています。こんな何の変りばえもない日常が僕の一日の生活です。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2024年6月13日号掲載

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