松任谷由実も大ファン、東京コミックショウ「ショパン猪狩」の生き方 色物芸を支えた妻・千恵子さんとの絆

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最後まで見せた芸人魂

 それにしても、「美女と野獣」と言われた東京コミックショウ。どうして夫婦になったのか。千恵子さんが私に教えてくれたのだが、ショパンさんが千重子さんを口説いた場所は現在のJR新宿駅南口、夜店が並ぶ甲州街道だった。陸橋の上で、

「僕と結婚してください。必ず幸せにしてみせるから。ウンと言わないときは君を抱えて飛び降りる」

 と迫ったそうだ。橋の手すりに足を掛けて飛び降りようとするショパンさん。千重子さんが後ろからしがみついて「やめて、やめて。一緒になるから」と言ったそうである。

 新婚生活を過ごしたのは浅草橋駅近くの柳橋。色香漂う花柳界の街だ。小さな印刷屋の2階8畳間を借りた。家賃6000円だった。ショパンさんは、ああ見えて真面目な人間だった。夢中で働き、61年に京王線・桜上水駅近くにマイホームを手に入れた。

「ウケれば祝儀が出る。しかし、コケれば灰皿、コップ、ビール瓶が飛んでくる。そんな修羅場の中で東京コミックショウは着実に力をつけていった」

 親しかった編集者の上島敏昭さん(68)はそう語る。ショパンさんが運転するワゴン車に舞台道具や鍋釜などの日用品を積んで、ふたりだけで全国津々浦々のキャバレーを回っていたころが、貧乏だったけど一番楽しかったに違いない。

 それにしても、狭い箱の中で中腰になるのは重労働だ。姑の介護、マネジャーや弟子の裏切りなどストレスも重なり、千重子さんは倒れた。動脈瘤破裂で20日間も集中治療室に入った。手術は終わり、復帰はしたが、痛めていた腰は次第に悪化。93年、横浜のキャバレーでの仕事を最後に、一線を退いた。

 その後、ショパンさんは養護施設や老人施設を回り、若手がときどき蛇の役を演じたが、絶妙なやりとりは再現できなかった。東京コミックショウは千重子さんの引退とともに終わったと言えるかもしれない。

 ショパンさんは2005年11月、突然、胸の痛みを訴えて入院した。手術室に向かう途中、千重子さんに向かってVサイン。そして指で「OK」と合図。何と、その手で看護師さんの胸を触ろうとした。

 最後までイタズラ好きだった。十数時間に及ぶ心臓の手術。「誠ちゃん! 舞台が始まるよ! ベルが鳴っているよ!」と千重子さんが耳元で叫ぶと、「ウ、ウー」と振り絞るような声を出して起きあがろうとした。まさに芸人魂である。だが、結局、意識は戻らず、心不全で旅立った。享年76だった。

 落語、漫才、講談、浪曲、そうした伝統芸とは全く違う色物芸。「負けてたまるか」という反骨精神があったに違いない。だが、10年、20年と同じネタで売れる芸はそう多くない。人気の秘密はショパンさんの痛快な話術にもあったのだろうが、千重子さんの支えがなかったら「道化」を演じ続けることはできなかったに違いない。夫婦で歩んできた昭和の芸能史。時代は平成から令和となったが、時折、無性に東京コミックショウの馬鹿馬鹿しさに触れたくなる。

 次回は「神様」と呼ばれたプロレスラー、カール・ゴッチ(1924~2007)。その墓は東京・荒川区の回向院にあるのはなぜか。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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