相手チームをボコボコに…球史に残る“歴史的猛攻”を振り返る スコアボードに表示できなくなったケースもあった!

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「打ちだしたら止まらなかった」

 前出のロッテに更新されるまで1イニング最多記録だったのが、冒頭でも紹介した1969年の阪神(アトムズ戦)と、1972年6月23日の巨人(ヤクルト戦)、1998年4月22日のヤクルト(中日戦)、2000年6月7日の横浜(広島戦)の4球団が記録した13得点である。

 69年の阪神は、3対0とリードの6回に先頭の大倉英貴から5連打で3点、さらに敵失などで加点したあと、この回2打席目の大倉の2点タイムリー二塁打、ゲインズの2ランなどで計12得点。とどめは田淵幸一のタイムリー二塁打で日本新の13得点になった。

 72年の巨人は、1対2と逆転された直後の6回に滝安治の満塁の走者一掃の二塁打で再逆転すると、高田繁のタイムリー二塁打、柳田俊郎の2ランなどで加点したあと、最後は高田の満塁本塁打で計13得点、3年前の阪神の記録に並んだ。

 98年のヤクルトは、1点を先行された1回裏、4番・古田敦也の二塁打で追いつくと、打線が点火。馬場敏史の2点タイムリー、先発・宮出隆自のプロ初安打初打点のタイムリー二塁打、さらに飯田哲也、真中満の連続アーチなど、4四球を挟んで10連打の猛攻で13点を挙げた。

 00年の横浜は、3対3の5回に先頭の波留敏夫から6連打とマシンガン打線が炸裂し、11安打2四球で13得点。2三振の小宮山悟以外の全員が安打を記録し、「打ちだしたら止まらなかった」と権藤博監督を脱帽させた。

“鯨打線”に火をつけた凡ミス

 最後はたったひとつのエラーがビッグイニングを誘発した1972年6月21日のヤクルト対大洋を紹介する。

 1回、3者凡退で終わった大洋は、2点を先行された2回も簡単に2死。6番・ボイヤーの当たりも右中間への飛球となったが、ライト・ロペスがグラブに当てて弾いてしまう(記録はエラー)。

 そして、この凡ミスが鯨打線に火をつける。2死一塁から大橋勲が右前にチーム初安打を放つと、米田慶三郎も遊撃内野安打で満塁。代打・近藤昭仁の押し出し四球で1点を返したあと、なおも1死満塁で江尻亮が右前に逆転の2点タイムリー、中塚政幸、シピンも連続タイムリーと止まらなくなった。さらに松原誠の右越えに2点タイムリー二塁打で、あっという間に7対2とリードを広げた。

 ここでヤクルトは先発・浅野啓司から杉山重雄に交代したが、その代わりばなを江藤慎一がダメ押しの左越え2ラン、さらに四球を挟んで大橋も左越え2ランで続き、1イニング11得点となった。結果的にロペスのエラーがとてつもなく高くついたことになる。

 想定外のハプニングに困惑したのが、神宮球場のスコアボード係だった。当時最大9点までしか得点板がなかったことから、苦肉の策で2回に「9」を入れ、欄外(延長10回の部分)に残りの「2」を加えて帳尻を合わせる羽目に。

 だが、ヤクルトも3、5、7回に2点ずつを返し、大洋は12対8とやっとの思いで逃げ切り。「12点も取りながら実にヒヤヒヤしていたんですよ」(土井淳コーチ)。最後は欄外の2点が大きくモノを言った。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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