西武・松井稼頭央監督だけじゃない…早々と辞任に追い込まれた“生え抜きスター監督”

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“青年監督トリオ”

 球団創設後、初の日本一(1960年)の立役者となるなど、通算193勝を記録し、引退後も投手コーチ、ヘッドコーチを歴任しながら、2年で辞任に追い込まれたのが、大洋・秋山登監督である。

 中部謙吉オーナーの“秘蔵っ子”だった秋山は、早い時期から次期監督候補に挙げられていた。だが、当時は川上哲治監督率いる巨人がV9を達成し、常勝の名をほしいままにしていたことから、中部オーナーは名前に傷をつけまいとして、なかなか監督に就任させなかったといわれる。

 そして、川上監督が退任した1974年オフ、満を持して40歳で新監督に就任。同時期に就任した巨人・長嶋茂雄、阪神・吉田義男とともに“青年監督トリオ”と注目された。

 だが、「投手陣の強化」をスローガンに、巨人から藤田元司を投手コーチに迎えた1年目は5位。翌76年も自身の入団以来、最低勝率(.366)で15年ぶりの最下位に沈み、シーズン終了後、辞任を発表した。

 それでも中部オーナーは「大洋ひと筋の最大の功労者。別のポストを用意する」と格別の温情を示し、2軍監督として球団に残した。1軍の監督が退任後、同一チームの2軍監督に就任する例は、極めて珍しい。

 中部オーナーは時期を見計らって再び1軍の監督に据える考えだったが、直後の77年1月に他界したため、“再登板”は実現せずに終わっている。

「読売グループ内の人事異動」

 就任1年目に日本一を達成しながら、2年目に電撃辞任したのが、巨人1期目の原辰徳監督である。

 現役時代に“若大将”の愛称で親しまれ、巨人の4番として通算382本塁打、1093打点を記録。引退後は評論家、巨人の1軍野手総合コーチ、ヘッドコーチを経て、2001年オフ、長嶋茂雄前監督から“禅譲”の形で名門チームの第15代監督に就任した。

“巨人愛”をスローガンに掲げた1年目は、投打がかみ合い、2年ぶりのリーグ優勝。日本シリーズでも宿敵・西武をストレートの4連勝で下し、日本一の座に就いた。

 だが、翌03年は、“不動の4番”松井秀喜のヤンキース移籍や主力の相次ぐ故障離脱に投手陣の不調も追い打ちをかけ、“星野阪神”が独走するなか、1度も優勝争いに絡めないまま3位転落。3年契約2年目の原監督は、翌年の続投も内定していたが、シーズン終盤、三山秀昭球団代表と来季のコーチ人事をめぐって確執が生じ、次第に雲行きが怪しくなってくる。

 その後、戦い方について三山代表から命令口調の電話があったという話も報じられるなど、我慢も限界に達した原監督はシーズン中の9月19日に渡辺恒雄オーナーに辞表を提出。球団側の慰留にも応じることなく、同26日、「読売グループ内の人事異動」(渡辺オーナー)という名目で、わずか2シーズンで監督を辞任し、巨人軍特別顧問に転任した。

 後任には現役時代に通算203勝と、これまた生え抜きスターの堀内恒夫監督が就任したが、04年は3位、05年は5位と結果を出せず、2年で退任。06年から原監督が復帰したのは、ご存じのとおりだ。

 原監督だけではなく、冒頭で紹介した村山監督も88年に再任をはたしており、1度退任しても、状況次第では再びチャンスがめぐってくる可能性があるのも、生え抜きスターならではと言えそうだが、松井監督は、はたしてどんな未来が待っているだろうか。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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