「警察庁潜入は簡単だった」 国松警察庁長官狙撃事件を自白した秘密工作員の語った犯行の驚くべき一部始終

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「週刊新潮」の取材をきっかけに、国松警察庁長官狙撃事件への関与を口にするようになった中村泰(ひろし)受刑者。取材開始から5年後、ついに彼は捜査当局に対して詳細な供述をするに至る。その驚くべき内容とは――

 中村を追い続けた記者、鹿島圭介氏の著書『警察庁長官を撃った男』をもとに見てみよう。(前中後編記事の後編。前編〈「警察庁長官を撃った男」は筋金入りのプロ犯罪者だった あまりに特異な人物像を弟が証言〉では親族の語った中村の特異なキャラクター、中編〈「私が撃ちました」 地下秘密工作員・中村が「国松警察庁長官狙撃事件」を自白するまでの攻防〉では、記者や取調官との生々しいやり取りを紹介している)

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 一旦(いったん)、話し始めると、中村は雄弁に事件の詳細を語った。ただし、意を尽くさない安易な文面には納得せず、取調官が急ぎ先に進むことを許さない。徹頭徹尾、供述調書の文章にこだわった。

《私が警察庁長官を撃ちました。暗殺目的で狙撃したのです》

 こう自供された供述調書を証拠として、「中村捜査班」は、捜索差押許可状を裁判所に請求。これが認められて許可状が出され、中村の証拠資料一式は歴史の闇に消失することなく、無事、保全された。すでに大阪の現金輸送車襲撃事件の判決は2008年6月に確定したが、関連資料は捜査当局のもとで守られ、今現在も、(訪れるかどうか分からない)次の出番を待っているところだ。

自供

 一度、調書の作成に応じると、中村は進んで捜査当局に協力するようになった。その後すぐに、より詳細な供述調書の作成にも応じた。こうして、事件の全貌(ぜんぼう)を伝える供述調書や裏付け資料は高く積み上げられていったのである。

 その供述内容はいかなるものだったのか。以下に、彼が、私との面会や書簡のやりとりなどで明かした犯行の全容に関し、その主要部分をお伝えすることとする。

《かつて私は、ある同志とともに、「特別義勇隊」という少数精鋭の秘密の武装組織の結成を目指しました。この非公然の「特別義勇隊」がある謀略の意図のもと、その最初にして最後の実戦行動として、決行を企図したのが、国松孝次・警察庁長官の暗殺でした。

 決行に使った拳銃、コルト・パイソンは、8インチ銃身という長銃身のもの。357マグナム口径の回転式拳銃で、1987年にアメリカで購入したものです。サウス・ゲート市というロス南郊の町にあるウェザビーという銃砲店の支店で、テルオ・コバヤシ名義の運転免許証をIDとして示し、600ドル台後半で買いました。ホローポイントタイプの357マグナム・(ナイロン樹脂でコーティングされた)ナイクラッド弾は、米国のガン・ショーと呼ばれる、ガン・マニアたちが集まる銃器類の見本市で手に入れたものでした。

 いずれも、「特別義勇隊」用の武器として、新宿の貸金庫に隠匿していました。

 ところで、94年に松本サリン事件が発生し、95年の元旦の読売新聞の報道で、オウムがサリンを製造していることが分かりました。私は、警察が教団に対し、水面下で懸命の捜査を推進しているものと思い、その実態をさぐるため、2月から3月初旬にかけ、当時、霞が関の中央合同庁舎2号館ビルにあった警察庁に潜入諜報活動を繰り返しました。オウムに対する警視庁や山梨県警などからの報告書を入手し、強制捜査は準備されているのか、されているとすれば、いつ頃、着手の予定なのか、捜査状況を探ることが最大の目的でした。

 当時はまだ警備も厳重ではなく、受付で埼玉県警のOBを騙(かた)って、中に簡単に入ることができました。1~2階には自治省(筆者註・当時)も入っている雑居ビルだったので、チェックは緩いものにならざるを得なかったのでしょう。ちなみに出るときなどはノーチェックの状態でした。昼間、庁内のトイレにこもり、夜まで待って、始動。警備局長室や刑事局長室はカギがかかっていましたが、差込式の鍵(かぎ)穴があるレバー・タンブラー錠という旧式のタイプであり、用意したカギとピッキング道具でたやすく忍び込むことができました(筆者註・名張のアジトから、多数の合鍵やピッキング道具が発見、押収〈おうしゅう〉されている)。》

警察庁潜入

《警察庁に潜入した結果、分かったのは、警察ではほとんどオウムへの対策は講じられていないようで、ぬるま湯状態であることでした。この事実に私は驚き、愕然(がくぜん)としました。この諜報活動の副産物として、警備局長室で見つけたのが、警察庁幹部たちの住所や電話番号が記された、緊急連絡表でした。国松長官の住所は荒川区南千住となっていて、次長の関口氏は、確か目黒区となっていました。私はこれを、当時、市販されていた簡易複写機「写楽」で記録しました。

 私は、ドヤ街などがあり、場末のイメージが強い下町の南千住などに高級官僚向けの警察官舎があるのだろうかと訝(いぶか)しく思って、3月初旬にその住所地に出かけてみました。すると、そこは官舎ではなく、大きくて立派なマンション群が建っており、まるでロサンゼルスにでもいるかのような錯覚にとらわれました。通用口の扉に仕掛けを行い、そこから中に入って部屋も確認しました。これで国松氏が官舎ではなく、自宅マンションに住んでいることを知ったのです。

 そんな中、3月20日に地下鉄サリン事件が発生しました。その時点で、私と同志である「ハヤシ」は、先に述べた、ある謀略を思い立ち、すぐさま国松氏を暗殺すべく準備にとりかかったのです。ほぼ連日のようにアクロシティの下見を重ね、3月28日を決行日と決めました。逃走に使う自転車は、事前にハヤシの側が放置自転車を拾って用意したもので、27日までには、アクロシティAポートの地下駐輪場に置き、目印にカラーテープを貼っておきました。

 その日は、視察を始めてから最も風の強い日でした。私たちは、私が狙撃の実行役、同志が後方支援役として、決行に臨んだのです。

 すでにそれまでの偵察活動で、長官公用車は午前8時過ぎにアクロシティに到着すると、まずBポート東側のマンション敷地外周路で待機することが分かっていました。そして午前8時20分頃になると、国松長官が住むEポートの北側の周回路に移動するのです。そこで助手席に乗っていた秘書官が降車し、Eポートの植え込み周辺やエントランス内の集合ポストなどに何か異常はないか点検した後、Eポートの玄関付近で長官の出勤を待ちます。また、この公用車が到着する少し前に、警戒要員である2人の私服警官が乗った乗用車が現れ、Fポート寄りの北側周回路に停車して、警備にあたることも分かっていたのです。視察の結果、長官がエントランスから出てきて、公用車の左側後部ドアから乗車し、出発していくのはいつも午前8時30分頃であることが確認できていました。

 しかし、長官公用車がアクロシティに到着するのを待っていた私は、不測の事態に直面しました。長官車両が、同じ黒色のプレジデントではあるのですが、ナンバーが変わっており、別のものに取り替えられていることが分かったのです。当時は新旧のナンバーを記憶し、記録もしていたのですが、現在、憶(おぼ)えているのは、替わる前のものが「品川33り××××」だったことだけです。

 長官公用車が動き出したのを見て、そのまま私も狙撃地点としていたFポート東南角に移動し、Eポートの方を凝視していました。するとさらに想定外の異変が起こりました。2人のコートを着た中年男性が国松氏宅を訪れ、エントランスに出てきた国松氏らしき人物は彼らを見ると、そのまま一緒にマンションの中に戻っていってしまったのです。2人の男は雰囲気から、おそらく警察関係者であろうと思われました》

ついに決行当日に

《長官公用車の変更に加え、警察官と思しき人間の突然の来訪。これらの異変から、私は警備体制が厳重なものに強化されたと受け止め、その日の決行を中止したのです。あらためて、武装強化するため、貸金庫に出向き、KG-9短機関銃も取り出し、用意しました。これは厳戒体制の警備員たちと銃撃戦など不測の事態が起こることも想定し、それに対応するため、準備したものでした。これらの武器は決行の時まで、当時、JR神田駅界隈(かいわい)に事務所を借りていたハヤシの方で保管してもらいました。

 新しい決行日を3月30日とし、再びアクロシティに赴くことになりました。

 その日は朝から小雨が降っていました。私は朝6時台に、当時、アジトにしていた小平市内のコーポ(筆者註・「服部知高」という偽名で、81年5月頃から96年11月頃まで居住)を出発。バスでJR国分寺駅に行き、東京行きの中央線特別快速に乗車しました。新宿駅で山手線外回りに乗り換え、JR西日暮里駅で下車。駅の北側路地で、軽自動車で来ていたハヤシと合流し、車で道灌(どうかん)山通り、明治通り、千住間道を通って、現場に向かいました。すぐ近くの都立荒川工業高校西側の、神社付近の路地で、銃器類の入ったショルダーバッグを持って、私は降車。アクロシティに到着したのは、朝8時すぎでした。小雨が降る中、まず、Bポート北東角に潜み、長官公用車を待ちました。私が下車すると、ハヤシは軽自動車で、千住間道沿いのNTT荒川支店に移動。その駐車場内で待機状態に入りました。

 ちなみに、この日の私の出で立ちは、メガネをかけ、白マスクをし、ふちのある灰緑色の柔らかい生地の登山帽を被っていました。手には、薄手の綿糸を肌色に染めた特殊な手袋をつけていたので、遠目には素手に見えたでしょう。靴はビジネス靴のような黒いウォーキング・シューズを履いていました。服装は、艶消しの黒いスーツにネクタイを着用。その上に濃紺色のコートをはおって、狙撃に臨んだのです》

北朝鮮人民軍バッジの狙い

《なおショルダーバッグの中にはフェデラル社製のホローポイント系357マグナム・ナイクラッド弾を装填(そうてん)したコルト・パイソンと6発の予備弾を入れたクイック・ローダー、サブマシンガンであるKG-9短機関銃を収めていました。

 さらにスーツの下に装着したホールスターの左腰ベルトには、不測の事態に備えるバックアップガンとして、スミス&ウェッソンの自動式拳銃(けんじゅう)を入れ、携行していたのです。

 これらにくわえて、もう一つこの義挙用に用意したものがありました。パイソン用に自分で製作した「着脱式の銃床」です。これはより安定した射撃を行うため、射撃時の衝撃を肩で受け止められるようにしようと考えて作ったもので、小型の松葉杖のような形状をしています。パイソンの銃把の左右両盤の上端をカットして、三つのボルトを埋め込み、そこに銃床の先端が着脱できるようにしました。素材はアルミ合金ですが、色は濃い灰色に塗装していました。長さは40センチくらいで、これをパイソンに装着すると、長銃身の銃がさらにその2倍ほどの長さになり、遠くから見れば、ライフルと見間違うかもしれません。

 またこの日は、常時、警戒にあたる2人の私服警官以外に、アクロシティ東側にある南千住浄水場北西隅の場所、長官が住むEポートからすれば、北東角側になる隅田川沿いにも警戒要員が1人立っていることを、待機状態に入る前のハヤシが無線で伝えてきました。しかし大規模な警備強化が行われた様子はなく、狙撃決行には特に障害にならないと判断し、そのまま計画を続行しました。

 Bポート東側路上から長官公用車が動き出すのを見て、私はAポートの地下駐輪場に向かい、自転車をひいて、南口の階段の手前で地上に出ました。そこから、Fポート東南角の植え込みあたりの狙撃地点に移り、臨戦態勢に入ったのです。足元に、北朝鮮人民軍記章(バッジ)を置き、エントランス・ホールの方に向かって、狙撃地点から3~4メートル離れた辺りに韓国の10ウォン硬貨を放り投げました。これは捜査を攪乱(かくらん)することが狙(ねら)いでした。

 この北朝鮮のバッジは、死亡した斎藤雅夫君のツテで、在日韓国人のTという男と会い、Tから、その知人だった韓国安企部(国家安全企画部)の人間を紹介してもらって、入手したものです。

 当初は、北朝鮮製のカラシニコフなどの銃器類が手に入らないかと思い、接触したのですが、「北のもので、持ち出せるのは、記章か帽子くらい」だというので、とりあえずバッジを、相手が欲しがった私の拳銃、コルト・ムスタング・ポケットライトと交換する形で譲り受けたのです。

 国松長官の出勤時間が近づくと、私はバッグからコルト・パイソンを取り出し、銃床を取り付けました。それをコートの内側に隠し持ち、長官の出勤を待ち構えたのです》

21メートル先の長官を狙撃

《長官がマンションから出てきたのは、午前8時30分頃のことでした。本来、公用車に乗車する際の静止した長官までの想定射程距離は約30メートル。しかし、この日にかぎり、長官は、秘書官を伴い、手前の通用口から姿を現したので、距離は約21メートルになりました。

 私はコートの下に隠し持ったコルト・パイソンを両手で把持し、銃床を右肩に当てて、ターゲットに銃口を向けました。1発目は、標的の上半身である背中の中心部を狙い、引き鉄(がね)に指の重みを加えました。轟音(ごうおん)とともに発射された弾丸は長官の背中に命中。すぐさま左手親指で撃鉄を起こし、第2弾を放とうとしました。しかし、後ろから357マグナム弾のエネルギーで突き飛ばされる形になった長官は前のめりになり、射手から見ると、その上半身は予想外なほど、水平かそれ以下に折れ曲がって、腰(よう)部の陰で見えなくなってしまいました。そのため、私は臀(でん)部の上部から左腰にかけてのあたりを狙うしかなく、長官が地面に倒れこむ寸前にその部分に銃弾を撃ち込んだのです。

 つづけざまに3発目の照準を合わせようとしましたが、またもや計算外の事態が起こりました。今度は傍らの秘書官がとっさに身を挺(てい)して、長官に覆(おお)いかぶさったのです。しかしながら、秘書官の体は長官の全身を隠し切ることはできず、その右股(もも)から下の部分はのぞいていました。そこで私は秘書官の体を避け、そのズボンすれすれに、長官の露出した右足の付け根辺りに狙いを定めました。かなり際どい射撃でしたが、狙い通り、銃弾は右大腿(だいたい)部の股付近を抉(えぐ)ったのです。

 それでも秘書官は臆(おく)することなく、懸命に長官の体を抱え込み、這うようにして、傍らの植え込みの陰に引き入れました。私には、人間の楯に守られた長官に4発目の銃弾を浴びせることはできませんでした。そのかわり、左手前方に、護衛車両から飛び出してきた私服警官が視界に入ったので、これに向けて、追撃を怯(ひる)ませるための威嚇(いかく)射撃を行ったのです。

 狙撃後、パイソンから銃床を外し、ショルダーバッグにしまうと、私は近くのFポートの外側壁に立てかけておいた自転車に乗り、猛然とペダルをこぎました。まずはFポートの建物沿いにマンション敷地内を西に向かい、建物の西端の切れ目まで来ると、スピードを緩め、隅田川河畔沿いの道路の方をうかがいました。これは、警備の護衛車両が先回りして、自分を追ってきていないか確認するためでした。

 側方に追っ手の影がないことを確認すると、私はほぼ直角に進路を左に変え、高層棟「タワーズ」を通り過ぎて、南へ向かいました。途中、左手の方で管理人が私を見ているのは分かりましたが、意に介さず走り去り、マンション敷地外に出る通路に達しました。こうして、私はアクロシティをL字型に横断、敷地から公道に出たのです。

 その際もまず、右手の隅田川方向からの追撃を確認しましたが、ここでもその気配はありませんでした。が、次の瞬間、私はヒヤッとしました。左側から歩いてきていた浮浪者風の男に気づかず、ぶつかりそうになったのです。何とか接触を避け、そのままハヤシの車が待機しているNTTの駐車場に向かいました。その千住間道をはさんだ筋向かいの喫茶店の東側壁面に自転車を立てかけて、無施錠(せじょう)で乗り捨て、ハヤシの運転する軽自動車に乗車しました。車は千住間道から明治通りに入り、宮地陸橋を経て、道灌山通りを通って、JR西日暮里駅に到着しました。

 そこで私は車を降りて、ハヤシと別れました。西日暮里駅から均一回数券を使って山手線内回りに乗り、新宿駅まで行き、銃器類を安田生命ビルにあった貸金庫に戻したのです。

 それから、私は再び新宿駅に戻り、JR中央線に乗って、武蔵小金井駅で下車。バスに乗り換えて、アジトだった小平市のコーポに帰還しました。

 その際、JR武蔵小金井駅の構内や周辺でかなりの数の警察官らが動員されているのを目にし、「こんなところにまでこれほどの緊急配備が敷かれたのか」と少し、驚きました。後日、その際の様子を、「緊急配備」という詩にまとめていますが、それは、名張のアジトから発見、押収されたフロッピー・ディスクの中に記録されています》

銃を海に捨てた

《その後、拳銃のコルト・パイソンとホローポイント系の357マグナム・ナイクラッド弾の残弾、ならびに撃ち殻薬莢(やっきょう)は、4月13日、竹芝桟橋から伊豆大島に向かう東海汽船「さるびあ丸」の船上から海中に投棄しました。他の乗客が寝静まるのを待って、夜遅く甲板から、紙袋に入れたそれらの銃器、弾薬類を海に捨てたのです。なお、その船には、北新宿を住所地とする「太田政之」という偽名で乗船しました。

 こうして、私たちは完全な証拠隠滅を図り、自分たちと本件が結びつかないようにしたのです。

 5月16日、私にとって懸案事項であった、オウム真理教の教祖・麻原彰晃の逮捕が、警視庁によってようやく実行されたのを見届け、これで自分の狙い通り、教団は壊滅するものと確信しました。その翌日、貸金庫に赴いて、保管していた天野守男名義の偽名パスポートを取り出しました。そして数日後、仕事をやり遂げたというすがすがしい思いを抱きながら、久方ぶりに空路、アメリカへと向かったのです》

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 ここまでの詳細な供述を得ながらも、結局、捜査当局は中村を逮捕することはできなかった。犯人しか知りえない「秘密の暴露」があったにもかかわらず……その背景にあった警察内部の暗闘ともいうべき事情についても鹿島氏は『警察庁長官を撃った男』で詳説している。

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