「警察庁長官を撃った男」は筋金入りのプロ犯罪者だった あまりに特異な人物像を弟が証言

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 5月末、一人の受刑者の死が報じられた。中村泰(ひろし)、94歳。服役していたのは2001年と02年に起きた現金輸送車襲撃事件で無期懲役の判決を受けていたからである。この事件を起こした時点ですでに70代というのもかなり特異といえるが、それ以上に特異なのは彼の場合、実際には逮捕されていない事件への「関与」のほうで有名だという点だろう。

 その死を伝える各メディアの報道では、1995年に起きた国松孝次警察庁長官狙撃事件への関与を「自白」していたことが主題となっている。

 もっとも、ここで報じられていないことがある。

 なぜ彼が「自白」に至ったのかだ。

 きっかけは、警察の厳しい追及でもなければ、良心の呵責(かしゃく)でもない。

 彼が自ら語りだしたそのきっかけは、2003年に「週刊新潮」の取材を受けたことだった。この時、すでに中村は前述の現金輸送車襲撃事件で逮捕され、拘置所の中にいた。

 中村が警察庁長官狙撃事件に関与している可能性がある――この情報をもとに同誌取材班は動き始める。

 彼は筋金入りの犯罪者とも言うべき人物であった。かつては警視庁の警察官を射殺し、約20年もの間、刑務所に服役していたことがある。仮出獄以降は謎に包まれた生活を送り、2001年と02年に、大阪や名古屋で現金輸送車襲撃事件を引き起こし、無期懲役の刑に処せられたのである。

 人生の大半を塀の中で過ごしてきたこの人物は、決して行き当たりばったりに犯行を繰り返す粗暴犯の類ではない。犯罪への強い気持ち、知能、そして侵入や狙撃のスキルまで兼ね備えた、かなり珍しいタイプの犯罪者だったのだ。その「プロフェッショナル」ぶりはどこかマンガや映画の主人公のようですらある。

 塀の中の中村と20回近くの面会、80通以上の書簡を交わした記者、鹿島圭介氏の著書『警察庁長官を撃った男』には、中村の特異性がわかる実弟らの証言が掲載されている。老スナイパーの生い立ち、性格に関する貴重な証言を見てみよう(前中後編の前編・以下、同書より抜粋・再構成)。

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実弟の証言

 そもそも私が、中村の存在を初めて知ったのは、2003(平成15)年夏頃のことである。捜査当局者への取材から、「警視庁刑事部捜査一課の捜査で、中村という男が長官狙撃事件の重要参考人として急浮上。捜査一課が水面下で壮絶な捜査を展開している」との情報に接したからである。

 当時、私は、「週刊新潮」で、その件を記事にすべく、取材に奔走するチームの一員だった。中村の実弟は取材記者の一人に対してこう語っていた。

「兄はいつも一人で本ばかり読んでいましたね。子どもの頃、水戸で空襲の危険に晒(さら)され、一人、爆撃機から逃げ惑った経験があったらしいです。機銃掃射で狙われて……。死を思ったそうで、そういうものも人間を作るのに、何か影響しているのかもしれませんね。あの頃、兄は口癖のように、『日本はAボムで負ける』と言っていました。私は“Aボム”って何だろう?”と分からずにいましたけど、アトミック・ボム、原爆のことですね。まだ原爆の存在が一般の間で噂になる前から、兄はどこからか知識を仕入れていたようで、『Aボム』という言葉を繰り返していました。

 頭でっかちで、運動はできないと思いますよ。ただ本当に頭脳明晰だから、両親、特に母親は将来を期待していたと思います。それがあんなことになってしまって……。

 そういえば、高校の頃、自動車部に入っていましたね。そういうクラブがある学校なんて、あの時分では珍しいと思います。だから、自動車いじりとかは好きなんですよ。機械類には強いですよ。何の研究をしているんだか、分かりませんが、いろんな機械や工具を集めていて、外国から文献をとりよせ、熱心にメカいじりをやっていました。実家の兄の部屋は、工作機械や分解された機械類、工具が足の踏み場もないほど散乱し、また印刷機なんかも置いてあって、まるで海底の潜水艦の中にいるような塩梅(あんばい)でした。

 他に趣味は何でしょうね。酒も飲まないし、贅沢(ぜいたく)は一切しません。多少、健康も考えて、ワインを少したしなむ程度ですね。質素で、それこそ1万円あれば、何ヶ月も暮らせそうな人間です。食事はカロリー計算をきちんとやって、必要な分の栄養だけ摂り、ムダに食べないようにしていました。それと、本人が昔、言ってましたけど、よく噛むんですよ。そうすると、栄養がちゃんと吸収できますからね。刑事さんに聞いたところでは、今でも拘置所の中でちゃんとカロリー計算をしているそうです。何においても緻密な人間なんですよ。

 数十年前に千葉刑務所を出所してきてから、山形や秋田など東北地方の温泉に連れていったことがありますが、立派な高速道路が出来て、日本が様変わりしている様子を目にし、浦島太郎のような雰囲気で驚いていましたね。

 女性関係はまったくないですよ。女には全然、興味がないんじゃないですかね。もちろん、結婚は一度もしていませんし、家庭や家族を持とうなんて、思ったことすらないはずです。

 そういえば、うちは母親が、ある総理大臣経験者の夫人と縁戚関係にあるんです。母親の家系を辿っていくと、姪が大臣経験者に嫁いでいたり、また遠戚ですが、皇后陛下の美智子さまの正田家にもつらなるそうで、結構、“華麗なる血脈”なんだということを昔、説明されたことがあります。

 兄と最後に会ったのは、1993年の父親の七回忌の時で、文京区内のお寺で顔を合わせました。なにしろ地下に潜っていますから、どこにいるのかも分からない。電話代行業者に伝言をしておくと、たまに連絡がくるときもあるという程度で、ほとんど音信不通の状態でしたね」

末弟は東大卒の学者だった

 私自身(注・著者の鹿島氏)も、幼少の頃、養子に出たという、末弟に会った。この人物は、中村と同じ東大の理工系に入学した秀才で、ある分野で著名な学者として活躍している。中村はすぐ下の弟にはさほど自分からコンタクトをとっていないが、なぜかこの末弟には数年に一回くらいは連絡を寄こしたという。

「兄に最後に会ったのは、数年前です。何かの用事で東京に来た時に、ついでに連絡を寄こすというような感じでした。喫茶店などで待ち合わせて、話をしました。話といっても、本当に雑談、世間話のようなものです。別に何をお願いされるでもありません。ですから、兄がなぜ私に会おうとするのか、私自身、分かりませんでした。

 とにかく、兄は居場所を知らせないので、どういう生活をしているのかも皆目、見当がつきません。だいたい、スーツにネクタイ姿のことが多かったですね。『どうやって、生計を立てているんですか』と尋ねると、『砂糖とか商品先物取引をやっている』と言っていました。

 兄が名古屋の銀行強盗事件を起こし、捕まった時のショックは表現しようもありません。数十年前に警察官を射殺し、周りが大騒ぎになって、あれだけ父や母たち家族が苦しんだのに……、またか、という思いでした。あの当時、私たち家族は本当に大変な目にあったんです。

 私は、兄と会っている時は、いつも妙に不安なものを覚えていました。別れ際に、兄に、『あれだけ親を苦しませたんだから、もう真面目に生きてくださいね。悪いことには手を出さず、真っ当に生活してくださいね』と言ったものです。兄は少し考える風にして、『ずっと裏街道を歩いてきたから……。真っ当な生活はできないよ』と小さな声で答えて、どこかに去っていく姿が印象に残っています」

拘置所での面会が実現し……

 この時の取材チームの調査は広範にわたった。二人の実弟の他に、池袋や神戸の電話代行業者はもちろん、中村の父親が入所していた特養老人ホームの担当者や、その墓がある文京区の寺も記者が取材に回った。

 名古屋事件の弁護士や、中村が先物取引を行っていた福井県の会社の担当者にもあたり、かつて警官殺しを起こした際、逃亡して潜伏した大阪のアパート跡地や車を解体した、兵庫県下の倉庫跡なども訪ね、関係者に話を聞いた。むろん、三重県名張市のアジトにも記者が足を運んだ。

 結果、「週刊新潮」では、「『国松長官・狙撃犯』のアジトで発見された『犯行日記』」(2003年10月30日号)などのタイトルの記事を、2週にわたり、掲載した。長官狙撃事件と中村との関連性について初めて報じる記事だった。

 その後、私は、代理となる弁護士ではなく、直接、中村と会って、話をしたいと考えるようになった。そこで03年11月、名古屋拘置所に赴き、中村本人との面会を申し入れたのである。緊張しながら、面会室で待つと、その小柄な老人は現れた。これが中村との一番最初の出会いだった。

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 記者を前に中村は、意外な態度を示す。記事の中で触れていた別の事件への関与を否定しながらも、長官狙撃事件については思わせぶりな物言いをしたのである。その迫真のやり取りについては中編〈「私が撃ちました」 地下秘密工作員・中村が「国松警察庁長官狙撃事件」を自白するまでの攻防〉で。また供述の全貌は後編〈「警察庁潜入は簡単だった」 国松警察庁長官狙撃事件を自白した秘密工作員の語った犯行の驚くべき一部始終〉でお伝えする。

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