「これ以上やっても、過去の自分の焼き直し…」十年前の気づきがもたらした、杉山清貴の新しい可能性

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『記録と記憶で読み解く 未来へつなぐ平成・昭和ポップス』 杉山清貴(2)

 この連載では、昭和から平成初期にかけて、たくさんの名曲を生み出したアーティストにインタビューを敢行。令和の今、Spotifyなどの音楽ストリーミングサービス(サブスク)で注目されている人気曲をランキング化し、各曲にまつわるエピソードを深掘りすることで、より幅広いリスナーにアーティストの魅力を伝えていく。

 今回は、杉山清貴のソロ時代の人気曲を考察する第2弾。前回は、定番曲だけではなく、若手作家とコラボした近年の楽曲も人気ということを見てきたが、今回はSpotify第4位から語ってもらおう。

 第4位は、1988年の5thシングルの「風のLONELY WAY」。杉山のたおやかな歌声が際立ったバラードで、本作は“火サス”こと、日本テレビ系『火曜サスペンス劇場』のエンディングテーマに起用されたことも、オリコン1位を確固たるものにした。とはいえ、ドラマ・タイアップということで制約は多かったのでは?

「そうですね、メロディーの方は、バラードというオーダーに僕が応えてすんなり通ったのですが、歌詞の方は、作詞家の田口俊さんが、1日がかりで書き直しを指導されて大変だったみたいです。やっぱり、ドラマのあらゆる展開のエンディングに相応しい内容にするために、入れてはいけない言葉とか、考慮すべきストーリー性とか、いろいろあったんでしょうね」

 また、本作は編曲のみを林哲司が担当しているという点も興味深い。というのは、当時、既に売れっ子作曲家になっていた林が、作曲・編曲をまとめて引き受けることはあっても、本作のように編曲のみ受けるというのが非常に珍しいからだ。これについて杉山に尋ねてみると、

「メロディーを書いた時に、林哲司さんのバラードが浮かんできたので、あのアレンジで聴きたいなぁと思ったんです。それで、“今回、アレンジだけお願いできませんか?”って言ったら、“えぇーー?”という反応だったんです。それで、シングルB面の『無言のDIALOGUE』(第25位)の作曲と編曲を依頼して、その交換条件で『風のLONELY WAY』の編曲も引き受けてもらえたんですよ」

 こうした取り引きができるのも、オメガトライブのプロジェクトを共に盛り上げてきた同志だからであろう。ちなみに、杉山は林哲司の作家人生50周年記念のトリビュートアルバム『A Tribute of Hayashi Tetsuji』でも、林哲司「悲しみがいっぱい」のカバーで参加している(本作もSpotify第50位にランクイン)。

「おかげさまで、『風のLONELY WAY』もヒットしました。先日、林さんとの打ち合わせ中に、喫茶店で流れていて、林さんが“あれ、これ、オレの曲?”ってマネージャーさんに尋ねていて。それを聞いて、(自分のメロディーだと勘違いするなんて)僕も、そのスゴい領域に達したんだと思って誇らしかったです」

街から海へ

 第9位「プリズム・レインに包まれて」、第14位「風の一秒」、第15位「LIVIN' IN A PARADISE」と、平成元年から平成5年までのシングル曲がTOP10前後に並んだ。いずれも、オメガトライブから続く、ひと夏ごとに新しい恋をする軟派(?)なイメージではなく、どこか男くさい雰囲気が漂う。なお、「プリズム・レインに包まれて」はオリコン最高12位で、オリコンTOP10入り記録が「7作」で途絶えた。これは、本作が収録アルバムを同時発売するなど、シングルに特化しないプロモーションだったためであり、アルバム・ヒットは継続していたことも注釈しておきたい。

「『プリズム・レインに包まれて』は、意外に上位ですね。(シングルとアルバム同時という)リリースに関しては、自分は全く意見がなくお任せにしていました。それと同じアルバムからは、『ROCK ISLANDS』がそこそこ人気(第20位)なんですね。

 この2曲は、ソロになって完全に街から海へと照準を変え始めたころです。作詞の田口俊さんは、世界中の海に浸かったことがあるほど、根っからのダイバーなんですよ。ふだんは女性アイドルに書くことの多い彼が、“海の歌詞を書きたい!杉山君しか書かせてくれる人がいないんだよ~”って言うので、僕も、どうぞ、どうぞってお願いして。だから、ここで“チャラさ”がなくなったとすれば、それは田口さんのせいですね(笑)」

 MIZUNO SUPER STAR CMソングの「風の一秒」や、アサヒ生ビール「Z」CMソングの「LIVIN’ IN A PARADISE」では、ロック色がいっそう強くなっている。

「タイアップの要請もあって、『風の一秒』は疾走感のあるものを、『LIVIN’ IN A PARADISE』の方は、ビーチ・ボーイズをイメージしたんですよ。この頃はずっと憧れていた(アメリカの有名な音楽プロデューサーである)トム・キーンと共同制作をしていて、89年に初めてロサンゼルスに行き、翌年から直接やり取りしていました。やっぱり、自分が聴いて育ったミュージシャンたちと自分の曲が作れるなんて最高じゃん!と思って、完全にその方向を追求していました。

 その次の年には、ボディボードを持ってハワイに移住し、波乗りメインで、時々曲を作るというスタイルでした。もちろん、プロなので売らなくてはいけないのですが、自分の世界観や生き様をどうやって音楽に反映させていけばいいか、日々挑戦していましたね」

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