【追悼】マッカーサーから勧められた夢のような食事、ルビー・モレノとの訴訟・和解、65歳で慶大に再入学…稲川素子さんが語っていた「凄すぎる人生」
マッカーサーは同じように私を招き、「Have a lot」と…
当時の私は、ミッションスクールの女子聖学院高等部に通っていました。
体調が良いときは、学校で級友と語らい、ピアノを弾くのが何よりの楽しみでした。
女子聖学院は当時から土日が休みで、日曜日は教会に礼拝に行くよう定められていたのですが、高校2年の時に国会議事堂の真向かいにあったチャペルセンターという教会の聖歌隊に参加するよう学校から推薦されました。
チャペルセンターは主に進駐軍の軍人が集まる教会でしたが、マッカーサー夫妻と息子さんも日曜日の礼拝に来ることがあったのです。
ある日の礼拝の後、私が歌い終わり壇上から降りた時、マッカーサーが私の手をそっと握り肩に手を置くと、裏庭の木陰のテーブルまで私を連れ出しました。
しばらくすると、教会の人がベーコンエッグと、パンとバター、ミルクを運んできてくれたんです。
マッカーサーから身ぶりで食べるように勧められ、夢の様なごちそうを頂きました。
初めて食べたベーコンはちょっと塩辛くて、何度も何度もかんで飲み込みました。
その翌週も、マッカーサーは同じように私を招き、「Have a lot」と食事を勧めてくれ、後には私が1人で食事をしているのが寂しく見えたのか、友人も一緒にベーコンエッグをいただくのが習慣になりました。
極度の栄養失調による貧血で青白い顔をした私を可哀そうに思っての厚意だったのでしょうが、当時は街中でも決して見られないような貴重な食事をいただきながら、「私たちはこんな人たちと戦争をしていたのか」という思いが心に強くよぎりました。
今でも誕生日とかお祝いの席では必ずマッカーサーを偲んで、ベーコンエッグを一皿出すようにお願いしています。
「稲川さんに頼めば、良い外国人が見つかる」と口コミで
――食糧事情も改善して徐々に健康を取り戻した稲川さんは23歳の時に、三井鉱山に勤務していた稲川長康氏と結婚。2歳10ヶ月からピアノの英才レッスンを受け、後にプロのピアニストとして米国に渡る一人娘の佳奈子さんの教育に力を注いだ。そんな生活に転機が訪れるのは50歳の時だった。
娘が、日本テレビのドラマにピアニスト役で出演する事になって、その撮影現場で監督とプロデューサーが、「今度制作する映画でフランス人を起用したいのだけど、なかなか見つからなくて困っている」と話しておられるのを小耳に挟んだんですね。
とても困っていらしたようなので、つい「フランス人の友達なら1人います」と言ってしまったんです。
すぐに紹介してほしいという運びになったのですが、その友達は既に帰国していました。
ただ、その時、監督たちに「申し訳ありません。お役に立ちませんで」と言ったならば、今の私も会社もなかったでしょう。
自分で探してみようと日仏学院に電話したところ、演出家で元俳優という経歴の方が見つかったんです。
この方の演技がすばらしくて、「稲川さんに頼めば、良い外国人が見つかる」と口コミで広まり、あちこちから依頼が来るようになりました。
最初の2年間は紹介料も一切いただいていなかったんです。そのうち「何か問題が起こった時に、労働大臣(現厚生労働)の許可を取っていないと、ご主人が会社に辞表を出さざるを得ない事態になりますよ」と助言を受け、慌てて大臣の許可を取って、1985年4月に「稲川素子事務所」を設立したのです。
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