ドリカム中村が明かす35年の軌跡 「300曲あるとすれば290曲は聴かれていない。トップ10の曲でドリカムは成り立っている」

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6畳一間でできた名作

 91年4月のシングル「Eyes to me」がオリコン1位に、同年11月のアルバム「MILLION KISSES」も前作「WONDER3」に続いてミリオンセラーとなるなど、押しも押されもせぬトップアーティストの仲間入りをしたが、「ドリカムは500万枚行くと信じてやってきた」という中村に充実感はなかった。「いつになったらお金持ちになるんだろうってね」と笑う。

 ドリカムの楽曲の大半は吉田美和の詩 曲によるもの。これは「ドリカムは吉田の作詩 作曲が推し、というのがコンセプトだから」と中村は説明する。吉田の曲に中村がメロディーを加えることはあるものの、「吉田が作詩 作曲したというインパクトを出すために、共同作曲者としてのクレジットはつけなかった」という。当然、作曲分の印税は入ってこないことになる。

 吉田が曲を書けずにいた時期に、TBSドラマ「卒業」(中山美穂主演)の主題歌の依頼があった。制作陣は「吉田が曲を書けるようになるのを待っていた」という。だが締め切りが迫ってもなお吉田は書けず、「仕方ないから正人、書いていいよ、と言われて書いたんですが、デモテープから100回ぐらいやり直しをさせられた」という。

 それがオリコンシングルチャート2位となった「笑顔の行方」。中村は「八百屋さんの上の6畳一間のアパートで書いたんですよ」と昔日を振り返る。

200万超え8作

 ドリカムは92年11月に発売されたアルバム「The Swinging Star」で初めてアルバム売り上げ300万枚を突破したアーティストとしても知られる。だがそれはすぐにGLAYが500万枚、そして宇多田ヒカルが800万枚という金字塔的売り上げを記録し、塗り替えられた。

 ただ「200万枚超えのアルバムが8作品あり、バンドの持続性という意味では、日本においては稀なバンド」と自らのバンドを評価する中村。ドリカムのすごさがきっちり可視化された証である。

米国進出の蹉跌

 デビュー当時から世界マーケットを視野に、クリスマスをテーマにした「WINTER SONG」、世界にも通用する言葉を使った「SAYONARA」など、英語詩の曲を歌い、97年には米ヴァージン・レコード・アメリカへ移籍し、世界へ踏み出した。

「ドリカムの曲を世界中に伝えたい」という思いがあったからだが、その一方で、ドリカムの根源である「吉田の詩は日本文化に特化していた」という。

「当時はまだ海外へ進出するには英語でなくてはならなかった。その英語はカナダや豪州、欧州など西洋の訛りなら許されても、日本訛りの英語は許されず、吉田もそれに合わせるのに苦労した」といい、英ロンドンでブリティッシュイングリッシュを徹底的に叩き込み、英語詩による歌に挑んだ。

 ただ米国で売るためには「エージェントやロビイストなど政治的な力が非常に大きかったのも事実で、そうした環境を揃えてくれるのが、英資本のヴァージン・レコードの米ブランチだった」といい、そこからの米国デビューへつながった。

「ロンドンで積み上げ、学んできたものをさらに大きくしたい」と意気込んだ米国進出だったが、実際には思うような結果は残せず。スーパーバンド、ドリカムにとっては結果的に、蹉跌ともいえる足跡となった。

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