ちあきなおみがコンサートの舞台裏で必ず水桶を用意させた理由【元マネージャーの証言】
二人だけの約束事
舞台スタッフに先導され、一途にステージへと向かう後ろ姿は、歌うことで死に場所を探しているような孤独感や寂寞感を感じさせた。
本番一分前となり、ステージ中央にスタンバイすると、本人お手製のはちみつドリンクを喉に流し込み、後方にぴったりと寄り添う私の眼を見て精神の焦点を絞り、ふっと笑顔を見せて息を抜く。
私は舞台袖に移動しステージ中央を振り返ると、そこには現実から姿を晦まし、薄暗い照明に照らし出された、自分自身をちあきなおみに閉じ込めたひとりの歌手が立っていた。
幕が開くと、その歌手はスポットライトの中、一気に静から動へと、ステージを物語へと創り変えてゆく。
劇場でのちあきなおみと私のあいだには、ふたりだけの約束事があった。
「今日もお願いね」
「分かりました」
そこには、観客にも、関係者にも絶対に見せない、真の、歌手・ちあきなおみの姿があった。
それは、必ず私が舞台裏に水桶を設置しておくことである。
ステージ中盤、場面転換や衣装替えのため、ちあきなおみは一度ステージからはける。それはいつも、「朝日のあたる家」の歌唱後であった。その際に、この水桶に喀痰を吐き出し、また、唾液を入れ替えるのだ。拍手喝采が向けられるステージと慌ただしくスタッフが往来する舞台袖の裏側で、断崖絶壁に追い込まれた獣のような形相で「はあ、はあ」と激しい息づかいの中、呼吸の確保のため排痰する姿こそ、私がちあきなおみを想うとき、切ないほど心の上にはっきりと焼き付けられた、ステージ上の姿と同居させるもうひとつの姿なのだ。
その姿は、一曲一曲との真剣勝負の凄惨さを伝えてきて、私は水桶を差し出しながら、その躰の内から吐き出されるものに、ちあきなおみの心火の量を受け止めているような気がしていた。私は、いつも水桶に飛散した血色の感情を処理しながら、いつまでもこの人の付き人でありたい、と思ったのだ。
そして、ちあきなおみは再び自らの影を切り捨て、しれっとした様子でステージの闇に溶け込み、スポットライトに照らし出されて浮かび上がるのである。
しかるに、私は一度もちあきなおみのステージを劇場の客席から観たことはない 。とうとう、この伝説である歌手の、光に照らされた表舞台の中に繋がりを持つことは叶わなかった。私のちあきなおみ体験は、徹頭徹尾、光の閉ざされた闇の中にある。その暗闇に包まれた場所が、私の指定された席であり、歌手・ちあきなおみと唯一連帯できる、青春の居場所だったのである。
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