もともとは引っ込み思案で人見知りだった…名優・八千草薫さんはなぜ宝塚を受験したのか

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俳優を目指した原点は戦争体験

 それにしても、もともとは引っ込み思案で人見知りだったという。それなのに俳優を志したのは、自らの戦争体験があった。

 1945年8月、大阪・天王寺の自宅が焼けたのは、敗戦の1週間ほど前の夜だった。裏から火の手が上がり、家まで燃え広がるのを道路を隔てた遠くから見ていたという。父はすでに他界しており、母と近くの家の2階を借りた。見渡す限りの焼け野原。台風が来た時はさえぎるものがなく、窓が割れて風が吹き抜けていった。

 翌年、新聞で「宝塚音楽学校、生徒募集」という記事を読んだ。目に飛び込んできたのは「宝塚」と「音楽」という文字。それまでの世の中とは違うキラキラとした輝きを感じた。「色のある世界へ飛び込みたい」と宝塚を受験した。

 今回、私は八千草さんの人柄を物語る資料がないか、あれこれ調べた。すると、今年4月に呼吸不全のため78歳で亡くなった詩人・星野富弘さん(1946~2024)の著作「四季抄 風の旅」(1982年・立風書房)から大きな影響を受けたことがわかった。人としての強さと優しさなのだろうが、八千草さんはこう書いている。

《首から下は全身麻痺で手も足も動かない星野さんが、筆を口にくわえて書いたこの詩と絵は何故こんなに明るいのでしょうか。この境地に到達するまでの星野さんは、その絶望と苦悩をどうやって乗り越えられたのか。肉体の自由を失ったその分だけ精神の自由が花ひらいたとでも解釈すればよいのでしょうか。自分がいかにノン気に生きているかと恥ずかしい思いがしました》(朝日新聞・1990年8月20日朝刊「こころ」欄)

 八千草さんの目は、美しい景色を100倍も1000倍も見てきた代わりに、汚いものどす黒いものも100倍も1000倍も見てきたに違いない。でも、汚いものをきれいに変える努力もひたすら続けてきた人だった。憧れの女性、理想の主婦、望ましいお母さん。さまざまな形容が浮かぶが、「今という時間」をきちんと前向きに生きた人でもあった。

 次回はターバン姿でヘビのぬいぐるみを操ったコメディアンのショパン猪狩(1929~2005)。「レッドスネーク、カモン!」と怪しげな片言英語を操り、亡くなる1カ月ほど前まで演芸場や地域のお祭りに出演していた。一代限りの「名人芸」を振り返る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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