もともとは引っ込み思案で人見知りだった…名優・八千草薫さんはなぜ宝塚を受験したのか
転機になった名作ドラマ
転機になったのは1977年に放送された山田太一(1934~2023)脚本の連続テレビドラマ「岸辺のアルバム」(TBS系)だ。八千草さんは当時40代。演じたのは東京郊外にマイホームを持つ核家族の平凡な専業主婦だったが、中年男性との不倫に走り、少しずつ艶っぽくなっていく。
その意外性と「ああ、そういうこともあるなあ」と納得してしまうリアリティーがお茶の間に衝撃を与え、47年経った今も「日本のドラマの最高峰」と称されている。だが、それでも八千草さんからは清潔感が漂うから不思議である。
2017年には往年の名優たちがキャスティングされて話題を集めた倉本聰(89)脚本の昼ドラマ「やすらぎの郷」(テレビ朝日系)に出演。「姫」と呼ばれる元女優を演じたのも懐かしい。
それにしても長い芸能活動だった。宝塚に入団したのが1947年だから70年以上も芸能活動を続けてきたことになる。亡くなった2019年に出版した随想録「まあまあふうふう。」(主婦と生活社)では、こんな風に自らの思いを打ち明けている。
《あの役を演じたい、この作品に出たいという欲はまったくありません。俳優が自分に向いているのかとずっと疑問でした》
忙しい俳優業の傍ら自然保護活動にも力を注いだ。環境省から要請され、自然環境保全審議会の委員も務めた。映画監督だった夫の谷口千吉さん(1912~2007)と国内外の山に登り、自宅では犬や猫を愛した。「オオカミを飼うのが叶わぬ夢」などとしばしば語っている。
山についてはさまざまなエピソードがある。ヒマラヤの麓で寝袋から眺めた星空の感激を、瞳を輝かせながら語った。
《空に光っているなんてものじゃない。まるで星と星とがガツンガツンぶつかり合っているようなんです》(朝日新聞・1985年10月26日朝刊「ひと」欄)
キリマンジャロやモンブランにも登った。幼いころ空気の良い六甲山麓の祖父の家に預けられ、大自然の中で丈夫になったのが影響したのだろう。映画界に入っても野外ロケーションは楽しかった。「宮本武蔵」のロケで初夏の日光に3カ月間、籠ったことも懐かしんだ。「顔が生き生きしているね」と周囲から冷やかされたという。
八ケ岳に山荘を持ち、暇さえあれば夫と一緒に出かけた。草花をスケッチしたり、読書をしたり。澄んだ空気が肌をなでる。東京に帰るのが本当にイヤだったそうだ。
いつまでもお元気でいてほしいとファンの1人として願っていたが、現実は残酷だ。88歳の死を惜しむ声。「男はつらいよ」の50作目公開を控えていた山田監督は八千草さんをマドンナ役に起用したことに触れ、「若い時からの憧れの人でした。(12月公開の)新作にも八千草さんの美しいクローズアップがあるので、それを通じてお別れを言ってください」。同作で共演したさくら役の倍賞千恵子さん(82)は「お兄ちゃん(渥美清=1928~1996)から(2人とも額が広いので)『似ている。ラッキョウみたい』と言われるシーンを思い出しました。とても優しい方でした。残念です」と懐かしんだ。
しゃべり方もおしとやか。清純なイメージのまま生きた人だったと言えるだろう。
「その一方、芯が強いところもあったようで、その強さがあったことが最後まで長く女優を続けられた理由の一つではないでしょうか」
ドラマ「やすらぎの郷」で共演した石坂浩二さん(82)は集まった報道陣にこう話したが、石坂さんが言うとおり「芯の強い人」だった。映画やドラマでは、その人のイメージを裏切るような激しい場面が出てくることもある。目をそむけたくなる時もある。だがその時、パシッと決めることができるかどうかが俳優としての力量なのだろう。
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