妻が口にした何気ない一言に、かつて抱いた“殺意”が蘇った…44歳夫の告白 「僕はずっと普通に生きてきたと言ってきたけど、本当はそうじゃなかった」

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わきおこった懐かしい「殺意」

 そのことに気づいたのは、美緒さんとつきあい始めたころだった。あなたはいつも明るくて優しい。健やかな人生を歩んできたのねと美緒さんに言われたとき、彼の胸の中にどす黒い「殺意」がわきおこった。いつか感じた感覚だった。

「実は僕には4歳違いの兄がいたんです。でも兄は10歳のとき小児ガンで亡くなってしまった。両親は嘆き悲しんでいました。特に父はそれから荒れてしまって。兄が病気になったのは母が悪いんだと言いつのって、母に暴力をふるっては泣かせていました。僕を見ると兄を思い出すんでしょうか、僕も意味もなく殴られた。僕だって父の子なのに」

 そんな彼を救ってくれたのは母だった。母は限りなく優しく、彼を大事にしてくれた。だから父に殴られても耐えることができたのだと彼は言う。

「気づいたら父はいなくなっていました。僕が小学校に入ってすぐくらいだったかなあ。母に、これからはおばあちゃんの家で暮らそうと言われて、入学してすぐ転校したんです。でもその後、今度は母までおかしくなって……」

 自身の実家に身を寄せた母はすぐに仕事を見つけ、朝から晩まで掛け持ちして働いていたが、そのうち帰りに飲んでくるようになった。行きつけのスナックで親しくなった男性には妻子がいた。狭い町だから噂になり、妻に詰め寄られて、彼とは別れざるを得なかった。

「祖父が母を平手打ちしたのを見ちゃったんですよ。父が母や僕を殴ったのと、祖父が母を打ったのとは意味合いが違うと今ならわかるけど、当時はどちらもただの暴力。大人が大声を出して怒鳴って手が出る。それ自体が怖くてたまらなかった。あとから知ったんですが、母はもともと自分の父親に殴られて育ったらしい。だから夫に殴られても、たいして大ごとだと思ってなかったんですね」

 だが傑さんは慣れなかった。何があっても暴力は怖いし、怖い思いをさせる人は悪い人だと思い込んだ。

「母はそれからも隠れて恋愛していたみたいです。祖父にバレて揉めなければそれでいいと僕は思っていた。高校に入ったころも、学校の最寄り駅近くのホテルの前に母が佇んでいるのを見たことがあるんです。誰かと待ち合わせしていたんでしょうね。夕方でした。その日の母の帰宅は遅かった。でもなんだか機嫌がよくて、僕にケーキを買ってきたりして。あのころ母はまだ40代に入ったばかり。寂しかったんでしょうね」

 傑さんは、高校を卒業すると就職のために上京した。一生懸命働いて3年たったころ、上司に「大学の二部に通いたい」と相談すると、上司は会社にも諮って了解を取り付けてくれた。

「その上司もまた人格者で、僕より一回り上で、今思えば若かったのに仕事もできるし人としても信頼できた。そういう人が味方になってくれたのはありがたかったです」

 5年かかって大学を卒業、社内での彼の待遇は大卒のそれになった。給与の問題より、「やり遂げた」ことがうれしかった。初めて少しだけ自信がもてたと彼は微笑む。そんな彼だからこそ、アルバイトの美緒さんが気になり、心惹かれた。

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