仏サッカー代表監督、ティエリ・アンリの「指導者」としての素質は? 読み解くカギは名将ベンゲルとの関係と“養成所”時代(小林信也)

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 U-23サッカー日本代表が8大会連続出場を決めたパリ五輪。地元フランス代表を託されたのはティエリ・アンリ監督だ。

 アンリは1998年W杯フランス大会で優勝の一翼を担った。20歳の若さで6試合に出場。得点こそ3にとどまったが、サイドに張ってドリブルを仕掛けるウインガーとしてチームに勢いを与えた。並外れたスピード、柔らかいボールタッチで相手を翻弄、華麗に抜いてチャンスを生み出した。

 アンリを語る上で、忘れられない存在がアーセン・ベンゲルだ。16歳でASモナコのスカウトの目に留まり入団した当時の監督がベンゲルだった。ベンゲルは94年8月、17歳になったばかりのアンリをリーグ・アンのOGCニース戦に抜てきした。3年目には36試合に出場、9得点で優勝に貢献。同年、U-19欧州選手権にも出場、決勝スペイン戦で唯一のゴールを決め、優勝の立役者となった。

エリート教育施設

 アンリは77年8月に生まれた。ルーツはカリブ海に浮かぶフランスの海外県グアドループ。プロサッカー選手だった父がフランス本土に移住し、アンリはパリ郊外で育った。6歳の時、クラブでサッカーを始めた。

 私がアンリを印象深く記憶しているのは、クレールフォンテーヌ国立サッカー養成所(現INFクレールフォンテーヌ)の出身だと聞かされたことが大きい。

 60年代まで、フランスの選手育成は各クラブに依存していた。それでは世界を制する優秀な人材を育成・発掘できないと考えた関係者たちが、改革に乗り出した。72年には全国各地に「フランスのプロリーグに優秀な人材を送り出す目的」でエリート教育施設INFが設立された。当時は16~18歳が対象だった。

 これに呼応し、各クラブも独自に育成施設を造り、大きな輪となった。フランスは84年欧州選手権で初優勝を果たす。これは育成改革の成果だと理解された。

 さらに88年1月、フランスサッカー連盟フェルナン・サストル会長(当時)の夢見た国立フットボールセンター設立が実現し、INF本部もそこに移動した。それがクレールフォンテーヌだ。89年、育成対象を13~15歳に下げた。

 Jリーグ発足で日本中がサッカー熱に包まれ、W杯自国開催に向けて大騒ぎしていた頃、あるジュニア・サッカー指導者から聞かされた逸話が胸に刺さった。

「98年W杯開催が決まってフランスが最初にやったのは何だと思いますか?」

 日本のスポーツ常識でいえば、「どうしたら優勝できるか」が最大のテーマではないか? そんな想像を見透かすように、彼は続けた。

「サッカーとはどんな競技か? その哲学的、歴史的背景や社会的意義を考察するところから始めたのです」

 当時もいまもフランスは、移民の問題が社会に大きな影を落としている。とくに移民してきた黒人の貧困、その子どもたちの非行が深刻で対策が必須課題。そこでフランスのサッカー関係者たちは、W杯を単なる強化のきっかけでなく、貧しい少年たちに学ぶ機会と未来を与える場にするという使命を認識した。そのため、クレールフォンテーヌは積極的に黒人少年を受け入れた。その中の一人がアンリだった。

 アンリとベンゲルの関係には第二幕がある。

 W杯後、アンリはセリエAの名門ユベントスに入団。しかし、わずか3得点に終わる。スターぞろいのユベントスの壁。イタリアの守備的サッカーではサイドにスペースが少なくアンリのスピードが生かせなかった。

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