【光る君へ】“素直でいい人”の紫式部に違和感…実際は清少納言を辛辣にこき下ろしていた

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田舎や田舎の人とは関わりたくない

 また、第21回では、父の藤原為時(岸谷五朗)が10年ぶりに官職を得て、越前守(福井県北東部にあたる越前国の長官)として赴任することになった。このため、長徳2年(996)の秋、まひろも父に同行したが、このとき越前には交易を求める宋の国の人たちが来着しているので、彼らと交流したりするのが楽しみだ――。ドラマでまひろは、そんな気持ちを吐露していた。

 しかし、実際に越前に着いてから、紫式部が人と積極的に交わったり、各地を歩いたりしたという記録はない。詠んだ歌といえば、だんだん寒くなって山を雪が白く染めるようになると、こんな感じである。

「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる(こちらでは日野岳に群生する杉を埋め尽くすように雪が降っていますが、京都の小塩山の松にも、入り乱れるように雪が降っているのでしょうか)」

 また、その雪が、国府がある平地にも降り積もり、国府の人が雪かきをして積み上げた小山に、女房たちが登ってはしゃいでいるのを見ると、こう詠んだ。

「ふるさとに かへるの山の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし(その雪山が、故郷の都へ帰るという名の鹿蒜山であるなら、心も晴れるかと思って、行っては雪を見てみたいものですが、そうではないので……)」

 気持ちはひとえに都に向き、帰ることばかり考えている。内省的な性格に加えて、田舎をバカにする、あるいは、バカにまでしなくても自分はなるべく関わりたくないと思っている、都会人の嫌らしさを感じるのは、私だけだろうか。

孤独で、内省的で、冷めていて、辛辣

 ところで、定子の兄弟である伊周と隆家が、宮中から追放のうえ配流されたのは、花山法皇を矢で射かけたことに加え、一条天皇の母である東三条院詮子と道長を「呪詛した」からだった。

 後者については、たしかな証拠がなかったと思われるが、いずれにせよ、平安王朝においては、病気の原因は、怨霊の仕業などの怪異に求められた。このため、人をおとしめるために、相手に災いをおよぼす呪詛が行われることが多く、実際、それは効果を上げると信じられていた。

 ところが、紫式部は怨霊や呪詛にも冷めた目を向けていた。たとえば、『紫式部集』にはこんな歌が載っている。

「亡き人に かごとをかけて わづらふも おのが心の 鬼にやはあらぬ(後妻が病気なのは、いまは亡き先妻の怨霊が取り憑いたからだと男は悩んでいるが、そんなふうに悩むのは、じつは自分心のなかに鬼がいるからではないのか)」

 後妻が病気になったのは、死んだ先妻の恨みが原因だと信じた男が、先妻の霊を呼び出す――。そんな場面が描かれた絵を見て、紫式部はこの歌を詠んだ。男は、亡くなった先妻の怨霊の仕業だと信じて、必死に祈って鎮めようとしているが、そんなものは男の思い込みにすぎないのではないか。彼女はそう問いかけるのである。

 科学がない時代に、近代人のように冷静で客観的な見方ができていることに、まず驚かされる。しかし、この見方は、紫式部への辛辣な視線や、越前の景色から目を逸らそうとする感覚と通じるように思う。

 大河ドラマのヒロインだから、視聴者の共感を呼ぶために、まひろは「いい人」であったほうがいい――。それはわかる。仕方あるまい。だが、残された文章から感じられる紫式部は、孤独で、内省的で、冷めていて、辛辣で、意地悪で、人を信用しない、そんな女性である。そのくらいでなければ、1000年も前にあれだけの大文学を書けなかったに違いない。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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