国松警察庁長官狙撃事件 朝鮮人民軍のバッジと韓国の硬貨はなぜ現場に置かれたのか 中村泰受刑者の手記
もしや、彼らは――
ゴルゴはF棟へ向かいながら、前方の様子を窺う。長官の出発時刻は迫っているが、SPの警戒活動の気配はない。
F棟の傍らで立ち止まり、自転車を側壁に立てかける。その向きは、E棟と逆の方向になる。傘を折り畳んで前籠に入れる。狙撃拠点へ歩み寄り、そこで重いスポーツ・バッグを床へ降ろす。ポケットから人民軍のバッジと韓国貨幣を取り出して下へ置く、あるいは投げ捨てる。コートの前ボタンを外す。人の気配を感じれば、背を向けたまま空模様を窺う。雨の具合を見ながら、傘なしで出かけたものかどうか思案する風を装う。
この位置からは、長官が玄関を出るのを見ることはできない。そこから公用車までの道筋のこちら側には植込みがあって、これを抜け出るまでは狙撃は難しい。しかし、その間隙を通して、相手が移動する気配は捉えられる。ゴルゴはそれに向けて注意を集中する。
移動する影が目に映ったら、静かにパイソン・ハンターを引き抜く。その影が植込みの端から出て、人物を確認したら、銃を上げながら左手を添え、その親指で撃鉄を起こす。銃口は後部ドアの付近に向けられる。標的に照準を合わせるのではなく、標的のほうが照準線間に歩み入ってくるのだ。長官が車の後部に近付くと、その左側に寄り添っていた秘書官が離れて、前部の助手席へ向かう。一人になった長官は後部座席に乗り込むために立ち止まって、静止標的となる。あらかじめ軽く調整されている引鉄に掛けた指に、最後の僅かな力を加える――
この手順を頭の中で反芻していたゴルゴの前で、突然、思いがけない異変が生じた。
狙撃者は前方にだけ注意を向けているわけにはいかない。発砲時に、すぐ背後に誰かがいたというような状況は好ましくない。彼の左後方には、F棟の入口がある。ゴルゴは首をまわしてそちらを窺った。
今のところ、人の出入りはないようだ。次いで、体も少しまわして背後を見る。そこはアクロシティの建物群に囲まれた広場である。そこにも人影は見当たらない。そこで、再び前方へ戻した視線が思いがけないものを捉えた。
斜め前方を向こうへ歩いて行く二人の男の後ろ姿がある。なんだ、これは、いつの間にどこから来たのだ。続いて、心中で舌打ちした。肝心なときにこんな所へ出てきやがって、狙撃時に行く手に立ちふさがったりされたら厄介きわまる。さっさと行ってしまってくれ――。しかし、次の瞬間、疑念が湧いた。もしや、彼らは――
私は國松氏を知っていたが、先方は私を知らない――と思う。私の受けた印象は、人当たりのよい温和な紳士という感じであった。警察権力の代表者という雰囲気はない。要するに、憎めない人柄なのである。私が氏を暗殺しなければならない立場におかれたら、心中の葛藤を克服するのは容易でなかっただろう。
では、ゴルゴはどうか。長官に会ったことはないとしても、顔写真は見せられていたはずである。しかし、後ろ姿では役に立たないだろう。それに、正面玄関から出たのでなければ、横の通用口からということになるが、長官ともあろう者が、そんな所からこっそり出入りするだろうか。第一、そんなことは全然聞かされていない――疑念が渦巻く中で、一つ閃いたものがあった。
与えられていた情報の中に、長官は日頃茶系統の服を着ているという項目があったのだ。それは、なぜなのか。私は単に國松氏の好みだろうと思うが、小説に仕立てるときには、次のように書こうと考えていた。
「警察庁は非制服組の牙城である。全員がスーツを着用し、階級章も付けていない。皆が紺色系や灰色系のいわゆるドブ鼠色の背広を着ているから、部外者には外観からでは、誰が課長か局長か長官か、わかりにくい。その中で、國松長官が自分の好みの茶色の服を着ているので、以前に茶系統のものを身に付けていた者も、なんとなく遠慮して着てこなくなった。これで、茶色のスーツは長官の『制服』となったのである」。
ゴルゴは、さらにもう一つの事実に気が付いた。この二人連れのうちの若くみえるほうが、もう一人に傘を差しかけている。だが、その茶色のスーツの男は傘を持っていない。つまり、この二人は雨中を遠くへ出かける仕度はしていない。車までの短い距離を歩くだけなのだ。もうその頃には、彼らがまっすぐ公用車へ向かっていることは、はっきり見てとれた。ターゲットは確認されたのだ。
本来の計画における想定射程は約30メートル。もちろん、プロにとっては撃ち損じるほどの距離ではない。しかし、それより近くても支障があるはずはない。ターゲットは動いている。が、ゆるやかな動きだ。車に到着して静止するまで待つことはない。
ゴルゴは左腋下のホールスターから、長銃身のパイソン・ハンターを抜いた。左手を添えながら構えると同時に撃鉄を起こす。その左腕を壁面に当てて、銃の安定を保つ。照準は、揺れの少ない上半身の中心部に合わせる。右手の人差し指に静かに力が加わった――
一九九五年三月三十日、午前八時三十六分、雨の中に最初の銃声が轟いた。高速の357マグナム弾が警察庁長官の上半身に食い込んだ。発射の反動で跳ね上がった銃身を水平に戻す動きに合せて、左手の親指が殆ど自動的に撃鉄を起こす。引鉄が絞られ、再び銃声が響き渡る。
***
ついに放たれた2発の弾丸。倒れた長官に向かって3発目の照準を合わせようとしたスナイパーの前で、予期せぬ出来事が起こる――。第3回「国松警察庁長官狙撃事件 中村泰受刑者が明かしていた『狙撃手がトドメの一発を撃たなかった』理由」では、スナイパーが心中で「見事」と感嘆したまさかの出来事や、現場からの逃走について綴られている。
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