「男はつらいよ」記念すべき第1作のマドンナに光本幸子さんはなぜ選ばれたのか

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元社長からの電話

 その後、折に触れて私は取材でお会いしてきたが、がんが進んでいたとは思えなかった。死後明らかになったのだが、がんが発覚したのは2011年。完治したかに思えたが、再発してしまった。周囲には何も言わなかった。

 最後の公の仕事は12年12月15日、銀座で開かれた「男はつらいよ」の特集上映会の初日だった。娯楽映画研究家の佐藤利明さん(60 )とのトークショーに出たのだが、楽屋では「首の周りが痛い」と言っていたという。まもなく入院。

「もう一度舞台に立ちたい」

 そんな願いもむなしく病状は悪化し、3人の子どもにみとられ13年2月22日に旅立った(病気についてはご本人の遺志もあり、本欄ではあまり触れないことにする)。

 実は亡くなった日、私は朝日新聞東京社会部OBの勉強会に呼ばれ、都内で最近の仕事についてミニ講演をしていた。当時、すでに「大衆文化担当」という肩書がついていたものだから、社会部OBにとっては「面白い記者が現れたものだ」と歓迎してくれたのである。社会部の懐の深さを改めて痛感した時間でもあった。

 勉強会も佳境に迫っていたとき、築地の本社から携帯電話が鳴った。「OBの中江さんという方から小泉さんに電話がありました」。OBの中江さん? もしかして……。

 朝日新聞社元社長の中江利忠さん(94 )からだった。「何があったのだろう?」と半信半疑で中江さんに電話をかけると、「光本さんが亡くなった。それを君に知らせたくてね」と言う。実は中江さんは明治座の舞台が縁で、社長になっても光本さんと懇意にしていたのである。元社長といっても私たちと同じ元新聞記者。訃報の特ダネを他社に先駆けて知らせてくれたのには本当に感謝している。

 翌日の朝刊社会面に、私は訃報「光本幸子さん死去、寅さん初代マドンナ」を書いた。

《光本 幸子さん(みつもと・さちこ=俳優、本名深谷幸子〈ふかや・さちこ〉)22日、食道がんで死去、69歳。葬儀は未定。施主は次男深谷慶介さん。
 初代水谷八重子に師事し、1955年に舞台デビュー。65年のNHK連続テレビ小説「たまゆら」で人気を集め、水谷良重、波乃久里子とともに新派の三人娘と呼ばれた。69年、「男はつらいよ」の第1作では、笠智衆演じる御前様の娘冬子の役で初代マドンナを務めた。「なよたけ」など舞台も多数。97年、菊田一夫演劇賞。》

 訃報に際し、山田監督のコメントが胸にしみた。

「新派で鍛えられた演技力の確かさと、背筋の通った凜とした美しさは、シリーズの初代マドンナにふさわしいものでした」

 品川区の桐ヶ谷斎場 で営まれた告別式。祭壇には寅さんとのツーショットや舞台の写真が飾られた。「あなたはいつまでも天真爛漫なお嬢さんでした」。友人が遺影に向かって語りかけた。

 あの日、初春のあふれんばかりの陽光が降り注いでいた。亡くなって11年。光本さんに会いたくなると、私は「男はつらいよ」第1作を見る。

 次回は同じく寅さん映画でマドンナを演じた八千草薫さん(1931~2019)。憧れの女性、理想の主婦、望ましいお母さんを演じたヒロインでもあり、不倫に走る妻を演じてもどこか清涼感が漂った。その魅力に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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