「男はつらいよ」記念すべき第1作のマドンナに光本幸子さんはなぜ選ばれたのか

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あのとき寅さんの恋心に気づいていたら…

 光本さんは「映画みたいな大きな画面に出るなんて恥ずかしい」と最初は出演を渋った。こちらは当時25歳。だが、どうにかこうにかして出演を承諾。神奈川県鎌倉市にあった松竹大船撮影所での衣装合わせのとき山田監督と初めて会った。そのときの印象が面白い。

「伏し目がちで、少ししゃべるとまた下を向かれる。照れ屋さんでした。でも、舞台ひと筋の私を、別の世界にいざなってくれた監督には感謝しています」

 光本さんは花柳界の中心、東京・柳橋で育った。チャキチャキの江戸っ子である。「光本」は母が経営していた料亭の屋号だ。初代・水谷八重子(1905~1979)に師事し、小学6年生のとき明治座の舞台に上がった。NHKの連続テレビ小説「たまゆら」で人気者となり、水谷良重(2代目・水谷八重子=85 )、波乃久里子(78 )とともに新派の三人娘と呼ばれた。気品ある演技は「花柳界」という育った環境によるのかもしれない。

 結婚し、一度は芸能界から身を引いた。潔くさばさばした性格は、マドンナ・冬子に似ていなくもない。「あっけからんとしているのかしら。天真爛漫って言ったら言い過ぎかしら」と苦笑いしながら語っていたのを覚えている。私は取材をきっかけに親しくなったが、日本橋の天ぷら屋さんに連れて行ってくださったのは本当に夢のような時間だった。

 光本さんは1984年に俳優 に復帰する。96年8月4日、寅さんを演じた渥美清さん(1928~1996)が68歳で急逝したときはこんなコメントを出した。

「私自身が映画初出演だった。私はいわば寅さんの初恋役。寅さんの恋心に気づかない役柄だったのですが、あのとき恋心に気づいていたら、寅さんもこんなに続かなかったのかな、なんて、ふと思ってしまったりして……」

 そんな寅さんの世界を再現した「葛飾柴又寅さん記念館」(東京都葛飾区)が2000年9月30日、新装オープンしたとき、私は取材で初めて光本さんに会った。会場となった中庭は、約500人の観光客らで身動きできないほどの混雑ぶり。帝釈天の参道沿いにある団子屋のおかみさんたちや寅さんそっくりの服装で現れた人もいる中で、和服姿の光本さんはひときわ華やいで見えた。寅さん映画でテキヤ仲間のポンシュウなどを演じた関敬六さん(1928~2006)も隣に座っており、2人で楽しそうに談笑していた姿をよく覚えている。

 名誉館長でもある山田監督は式典で「古き良き時代のニッポンという大事なコンセプトを伝えるにはどうすればいいのか考えた。10年先も20年先も愛され続けてほしい」とあいさつ。光本さんも「ここに来ると、寅ちゃんにいつでも会えるような気がします。柴又は私のふる里です」と笑顔で語った。

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